天邪鬼 弟の憂鬱 4

「リョータ!」

 はあ~また来たか、こいつ。

「いらっしゃい、三和さん」

「また来ちゃった」

 汚れてベージュになっている、元は白いソファに座った女が手を振った。楠三和、どう見ても三十路はとうに過ぎてるだろ、でも自称二十九歳のOLだ。

 太い肉っぽい女だった。

 平日の夜七時では客の入りもまばらだ。

 指名のこない同僚が暇そうにタバコを吸っている待機所から脱出したのはいいが、会いたくもない客だった。

 ボーイがボトルと氷を置いていくと、決まった動作で俺は酒を作って客に差し出す。

「ありがと」

 と言って三和はグラスをつかんだ。

 三和のセリフの後にはいつもハートマークがつく。「媚びてます」と全身で訴えているのが分かる。

「ねえ、リョータ。ランチデートとか無理?」

「無理」

「あ~もう、冷たいんだからぁ」

 三和は酒を一口飲んで、グラスをテーブルに置いた。そして、

「おほほほほ」と笑った。

「リョータのいいとこなんだけどね。その冷たいトコ。今時の男の子ってぇ、媚びすぎ?三和、そういう子、もう飽き飽きなんだぁ」

 飽き飽きって……

「そう」

 店の入り口から新しい客が入って来たのを横目で確認して、一悶着ある事を考えてため息をついた。ボーイが俺を呼びにくる。

「ちょっと、ごめんね、三和さん」

 俺が立ち上がると、三和はきっと新しい客を睨んだ。

「また! あの人、絶対、三和とかぶるのよね! ねえ、早く帰ってきてね!」

 と三和が俺にすがりつきなが涙声で言った。

「すぐ戻るよ」

 別のホストを付けておいて、俺は新しい客のテーブルに移動した。

「いらっしゃい、倫子さん」

「リョータ」

 三ツ橋倫子は綺麗な笑顔を見せた。

 倫子は顔もスタイルもよく、頭のよさそうな女だ。ただ少し年をとっている。三和よりも十は年上だろうと思う。だから金は持っている。

 俺からの感情は三和へも倫子へも変わらないが彼女には大事な用件を抱えているので、愛想よくしておく。

「今日も一段と綺麗だ」

「あら、どうしたの? 今日はお上手じゃない。私、知ってるのよ? リョータ君って氷王子ってあだ名なんでしょ? 超冷たいって意味らしいじゃない?」

「あはははは。そう。でも倫子さんには冷たくないンだから、俺の本気、分かってくれるでしょ?」

 そう言うと、倫子は嬉しそうに笑った。

「まあ、そういう事にしておくわ」

 酒を飲み出して俺はそうそうに話を切り出した。大事な事は早く済ませておかないと、横やりが今にもきそうだからだ。三和の恨めしそうな視線が後頭部に突き刺さる。

「ねえ、倫子さん、何か分かった?」

「ええ、まあ、でもうちのお寺にもそういう文献はあまり残ってなくてね」

 と倫子は言った。

 倫子の実家は寺だった。小さい寺で倫子の兄が継いでいるらしい。倫子も今時の若い女にしては礼儀正しい控えめな感じだ。

「父が大事にしている物の中で妖怪や妖怪退治の文献は多少あったけど、リョータ君が探しているような、妖怪から人間に変化したとかいう話は全然なかったわ」

「そう」

「あったとしてもかなり眉唾な話じゃないかしら? もともと伝承なんて不確かな物でしょう? 妖怪自体が本当にあったのかのかどうか怪しい存在でしょう? 人から妖怪に身を落したという説話は結構残ってるわよね。人々に対して戒めの意味が込められた昔話。でも私はそれは人が道を誤らないようにって作られた話だと思うわ。実際に人から妖怪になったなんて信じられないし、そもそも、妖怪なんていない、昔だっていなかったのよ」

「そうかな」

「そうよ。だから、人から妖怪にも、ましてや妖怪から人になった、なんて話はただの伝説なのよ」

 倫子は勢いこんでそう言ってしまってから、唇を噛んだ。

「あ、ごめんなさい。リョータ君はそういうのを調べてるんだっけ。大学の卒論? でも今頃?」

「え、まあね。でも分からないならいいんだ。ちょっと思いついただけだからさ」

「リョータ君って妖怪とかそういうの好きなの?」

「そうでもないさ。ちょっとね」

 俺がちょっとばかりむっとしたと感じたのだろう、倫子は慌てて続けた。

「でも今度兄が総本山の方に出かけるように言っていたわ。機会があれば何か聞いておくように頼んでみるけど……」

「いや、どうしてもって話じゃないから。忙しいお兄さんに手間をかけさせるのは気の毒だ。俺の話は忘れてくれていいよ」

 倫子は俺が気分を害したのではないか、と気にしているようだった。

「リョータ君は妖怪の存在を信じてるの?」

 話が終わると俺が席を立つと思ったのか、倫子はまた妖怪の話に戻した。

「倫子さんは?」

「私は……伝説だと思うわ。昔は電気もなかった闇夜だったからいろんな物をお化けとか妖怪に見間違ったのよ。そう思うわ」

「そう」

「だってもし本当にいるのだったら今も誰かが目撃してるはずよ。そういうのが好きな研究者もいるけど、実際に見た人なんていないでしょ?」

「そうだけど人間が猿から進化したように妖怪だって進化したかもよ」

 俺の言葉に倫子はあははははと笑った。彼女は歯並びがとても綺麗で、笑顔には人を惹きつける魅力がある。いや、妖怪も、か。

「妖怪が進化? リョータ君って面白い事を考えるのね?」

「そう? 野山を駆け回っていた猿がコンピューターを作った。世界中の人間が瞬時に何人も交信できる箱さ。これだって信じられないだろ? なら妖怪も進化するさ。人に化けて、人と同じように生活する道を選んだのさ」

「そうか……妖怪だけが昔のままに「ひゅーどろどろ」じゃないか」

 それは幽霊だろ、と言いたいのを俺は我慢した。

「この話は忘れていいよ。悪かったね」

 と言うと、倫子はうなずいた。

 妖怪が人になれるとは俺も思っていない。倫子にそんな話を持ちかけたのは、サキやクチメの為ではない。むしろこの街にそんな伝承が残っているなら誰かが目をつける前に消しておかなければならないと思ったからだ。俺は人間になぞなりたくないし、サキが人間になるなんてぞっとする。

 倫子の実家がこの街ではかなり大きな寺らしいのでさぐりを入れてみただけだ。倫子は浮かない顔をしているが、俺としてはそんな伝承はない方がありがたい。

「リョータさん、ちょっと」

 とボーイが呼びに来たので、俺は手を上げて合図をした。どうせしびれをきらした三和が催促したのだろう。俺は倫子に断って席を立った。

 平日でも夜九時を過ぎるころには満席になる。

 店内に充満している煙草の煙と酒の匂いにクラクラなりかけた頃、俺は一息いれる為に控え室に戻った。換気の悪いこの店の煙草の毒気は妖怪の身にはつらい。

 俺の前で煙草を吸う奴をぶっ飛ばしてやりたい。

 俺の客は大抵俺に「好みのタイプは?」と聞くので、「煙草を吸わない女」と言う。そうすれば俺のテーブルだけは煙草を吸う奴はいなくなるので、ありがたいが。

 控え室でミネラルウォーターを飲んで身体と頭をすっきりさせると、珍しく近くに妖気を感じた。かなり近い。もしかしたら店内にいるかもしれない。

 俺は控え室から顔を出して店内を観察した。

 ご同様だからといって親しい顔をするわけではない。フレンドリーな妖怪もいるが、そうでない奴もいる。そうでない奴には二種類いる。妖怪同士でも親しくしたくはないが、別に争う気もない奴と、自分以外の妖怪は皆喰って自分の妖力の餌食にしたい危険な奴。 後者の危険な奴は人間に変化して人間界に身を潜めているが、妖力を隠そうという気がないのですぐに分かる。そして大抵が昔気質の妖怪で、理性よりも暴力のパーセンテージが多い。

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