第7話:美女と試練

 桜庭玲奈が柳生新陰流の歴史に触れてから数週間が過ぎた。


 彼女の「鞘の間」での日々は、以前のような焦燥感や反発心ばかりではなく、どこか静かな探求心のようなものが芽生え始めていた。

 柳生係長の言葉や、アナログな記録の中に潜む「人の営みの記憶」に、彼女なりの理解を示し始めたのだ。


 そんなある日、「鞘の間」に不穏な空気が流れ込んできた。


 きっかけは、社内で急速に広まり始めた一つの噂だった。

 現在進行中の都市開発プロジェクトに関するもので、計画の杜撰さや、特定の業者との不透明な癒着を示唆する内容だった。

 それは巧妙に事実と虚偽が織り交ぜられており、社内の動揺は大きかった。


 特に、プロジェクトを推進する開発事業部は対応に追われ、玲奈がかつて所属していた経営企画部も、情報収集と対策立案に乗り出していた。


「また、厄介なことになりましたな」

 柳生は、どこからか手に入れた噂の概要が書かれたメモを読みながら、静かにつぶやいた。


 玲奈は、その情報を自分のノートパソコンに打ち込みながら答える。

「情報の発信源は今のところ不明です。ただ、噂の拡散スピードと内容の巧妙さから、内部の人間が関与している可能性が高いと見られています。経営企画部も躍起になって犯人捜しをしていますが、かなり手こずっているようです」


 玲奈は、かつての古巣の状況を冷静に分析していた。以前の彼女なら、すぐにでも自分で調査に乗り出し、デジタルな手法で情報源を特定しようと躍起になっただろう。しかし、今の彼女は少し違った。


「柳生係長は、何かお気づきの点はありますか? こういった社内の不協和音のようなものは、過去の記録の中にも何かヒントが隠されているかもしれません」


 玲奈の言葉に、柳生は少し驚いたように目を向けたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「桜庭さんも、『鞘の間』の流儀が少しずつ身についてこられたようですな」


「まだ、係長のように記録と対話できるレベルではありませんが…」玲奈は少し顔を赤らめた。

「ただ、この噂、単なる不満や憶測だけではない、何か意図的なものを感じます。まるで、相手の守りを崩すための、巧妙な『誘い』のような…」


 柳生は頷いた。

「おっしゃる通りかもしれません。この噂には、いくつか気になる『節』があります。例えば、この『水面下の交渉』という言葉遣い…これは、かつて社内のあるプロジェクトで問題になった際に、特定の部署が好んで使っていた表現に似ています。


 そして、指摘されている『不透明な癒着』の相手とされる業者の選定経緯…これは、当時の記録を丹念に調べなければ、外部の人間はもちろん、社内の人間でも容易には知り得ない情報が含まれている」


 玲奈は、柳生の言葉を聞きながら、素早くデータベースの検索項目を修正していく。特定のキーワード、過去のプロジェクト資料、関連部署…。


「確かに、係長の指摘する言葉遣いは、特定の時期の報告書に散見されます。そして、その時期に問題提起をしていた部署は…」

 玲奈の指が止まった。該当する部署と、そこに所属していた人物リストが表示される。


「ふむ…」柳生は、玲奈のパソコン画面を覗き込みながら、腕を組んだ。

「もし、その中に、今回のプロジェクトに対して何らかの遺恨を持つ者、あるいは、過去に不当な扱いを受けたと感じている者がいるとすれば…動機としてはあり得ますな」


 玲奈は、さらに情報を絞り込む。

 退職者リスト、人事考課の記録、過去の懲罰委員会の議事録…。しかし、それらしい人物はすぐには特定できない。


「デジタルな記録だけでは、感情の機微までは読み取れませんね…」玲奈は、小さくため息をついた。

「記録は、あくまで結果です。その行間にこそ、人の想いが滲み出るもの。少し、古い紙の匂いを嗅いでみましょうか」


 柳生はそう言うと、おもむろに書庫へと向かった。玲奈も、それに続く。


 柳生は、特定の年代の、特定の部署が作成した稟議書や報告書の束を慣れた手つきで取り出した。それは、玲奈が以前なら見向きもしなかったであろう、黄ばみ、埃をかぶった紙の束だった。


「桜庭さん、この噂の中で指摘されている『計画の杜撰さ』について、具体的な内容は覚えていますかな?」


「はい。確か、地質調査のデータに関する不備と、それに基づく需要予測の甘さが指摘されていました」


「うむ。では、その当時の地質調査報告書と、需要予測の元になった会議の議事録を探してみましょう。そして、その会議の出席者リストと、先ほど桜庭さんがリストアップした人物とを照合してみる」


 玲奈は、柳生の指示に従い、古いファイルの中から該当しそうな資料を探し始めた。紙の質感、インクの掠れ、手書きのメモ…以前は「ノイズ」としか思えなかったそれらの情報が、今は何かを語りかけてくるように感じられた。


 しばらくして、玲奈がある議事録の隅に書かれた小さな走り書きに気づいた。

「これは…『再考を促すも、権藤ごんどう専務の一声で却下』…?この筆跡、見覚えがあります」


 玲奈は、データベースに保存していた過去の稟議書の署名と照合する。

「…元・資材部の、畑中という人物です。彼は数年前に退職していますが、当時、この都市開発プロジェクトの初期計画に深く関わっていました。そして、彼の退職理由は…確か、健康上の理由とされていましたが、あまり円満なものではなかったという話も…」


 柳生は、別のファイルから一枚の書類を取り出した。

 それは、畑中氏が退職する際に提出した業務引継書だった。

 その末尾に、潦草な文字でこう書かれていた。

「我が提言、百年先を見通せずとも、十年先の憂いは見通せしと信ず。この想い、いつか誰かが汲み取らんことを」


「…『仕太刀』ではなく、時を待って放たれた『打太刀』でしたか。そして、その太刀筋は、見事に的を射ているように見せかけ、内側から組織を揺さぶる…実に巧妙ですな」


 柳生は、静かに言った。


 玲奈は、畑中氏がアクセス可能だった情報と、今回の噂の内容を照らし合わせていく。見事に符合する点がいくつも見つかった。

 そして、畑中氏とコンタクトを取っていた可能性のある現職の社員も数名リストアップされた。彼らは、畑中氏の思想に共鳴し、あるいは個人的な不満から、情報拡散に加担したのかもしれない。


「これで、経営企画部にも具体的な調査対象を報告できます」

 玲奈は、確信を持って言った。

「ここまで絞り込めれば、あとは彼らの出番でしょう」


「ええ。しかし、桜庭さん」柳生は、玲奈に向き直った。

「今回の件、単に犯人を見つけ出し、罰するだけでは根本的な解決にはならないかもしれませんな」

「と、おっしゃいますと?」

「畑中氏の抱いていた『憂い』。それが、全くの的外れだったと言い切れるかどうか。彼の『太刀』を受け止め、その真意を汲み取ることなく、『一刀両断』ただ力でねじ伏せようとすれば、また新たな歪みを生むやもしれません。


 それこそ、『受け流し』、あるいは『無刀取り』の精神が求められる局面かもしれませんな」


 玲奈は、柳生の言葉を黙って聞いていた。かつての彼女なら、「感傷的だ」と一蹴したかもしれない。

 しかし、今は違った。柳生の言葉の奥にある、組織の血の通った部分を見つめる視点に、彼女も気づき始めていた。

「記録を読むことは、相手の太刀筋を読むことに似ている…でしたね。そして、時にはその太刀を受け止め、活かすことも考えなければならない…」

「ご理解が早いようで、何よりです」柳生は、穏やかに微笑んだ。


 数日後、玲奈と柳生が提供した情報に基づき、経営企画部は情報操作の首謀者と数名の協力者を特定した。

 会社は、彼らに対して厳正な処分を下す一方で、畑中氏が指摘していたプロジェクトの計画内容について、再検証を行うことを決定した。

 それは、柳生の言う「太刀を受け止める」という姿勢の表れでもあった。


「鞘の間」には、またいつもの静けさが戻っていた。玲奈は、埃っぽい書庫の中で、古い記録のページをめくっていた。それは、以前とは少し違う意味合いを持って、彼女の目に映っていた。

 柳生は、そんな玲奈の姿を、何も言わずに見守っていた。彼の口元には、いつものように、全てを見通しているかのような、それでいて温かい微笑みが浮かんでいた。


 そして、玲奈の分析脳は、再び静かに回転を始めていた。

(この「鞘の間」の記録…確かに、人の営みの記憶だ。しかし、この記憶を、どうすれば未来に活かせるのか?単に保存するだけでなく、柳生係長のように読み解き、そして、私自身のスキルで、より多くの人がアクセスし、そこから新たな価値を生み出せるようにするには…?)


 玲奈の新たな挑戦は、まだ始まったばかりだった。そしてその隣には、静かに「受け流し」ながらも、確かな指針を示す柳生の存在があった。不穏な影は一時的に退いたかもしれないが、企業という組織には、常に新たな課題が生まれ続ける。その度に、「鞘の間」の叡智えいちと、玲奈の進化する合理性が、試されることになるのだろう。


 ※


 しかし現実は、玲奈の進化を辛抱強く待ってはくれていなかった。

本社から、玲奈宛に、内線電話やメールが断片的に届くようになったのだ。


 それは、玲奈が置き土産として残していったAIシステム「ミネルヴァ」に関するものだった。

「桜庭さん、ちょっと確認したいんだが、ミネルヴァの〇〇モジュールで、最近パフォーマンスの低下が見られるんだ。何か心当たりは?」

「先日、ミネルヴァが算出した需要予測に基づいて生産計画を立てたんだが、実際の売上と大幅な乖離かいりが出ている。原因を調査してほしい」

「ミネルヴァの人事評価補助機能で、特定の属性を持つ社員に対して、不自然に低い評価が連続しているという報告が上がっているんだが…」


 玲奈は、当初、「私はもう担当ではありませんから、後任の神崎に聞いてください」と突っぱねていた。


 しかし、自分が心血を注いで作り上げたシステムが、再び問題を起こしているかもしれないという事実は、玲奈の心を重くした。

 神崎は、うまくやっているのだろうか?それとも、問題を隠蔽しようとしているのではないか?考えたくなくても、気になってしまう。


 そんな玲奈の様子を、柳生は静かに見守っていた。

 彼は、玲奈がミネルヴァに関する電話を受けている時も、黙って自分の作業を続けているだけだったが、時折、ふとした瞬間に、核心を突くような問いかけをしてくることがあった。


「そのAIは、何を学んだのでしょうな?」

 ある日、玲奈が技術的な問い合わせに苛立ちながら対応していると、柳生がぽつりと言った。

「何を、とは…?データですよ。過去の膨大な業務データを学習させたんです」

「ほう。データ、ですか。では、そのデータに含まれていた『嘘』や『間違い』や『悪意』も、素直に学んでしまったのかもしれませんな」


「…!」

 玲奈は、息を飲んだ。


 柳生の言葉は、まるでミネルヴァの暴走の根本原因を言い当てているかのようだった。


「AIは、明鏡止水めいきょうしすい…鏡のようなものかもしれませんな。我々人間の、賢さも、愚かさも、善も、悪も、全てをありのままに映し出す。そして、時には、我々自身が目を背けたいものまで、増幅して見せてくれるのかもしれない」

 柳生は、そう言って、また和綴じの本に視線を落とした。


 玲奈は、柳生の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 しかし、その言葉は、棘のように玲奈の心に突き刺さり、不穏な予感をかき立てるのだった。


 ミネルヴァが引き起こした問題は、まだ終わっていなかったのかもしれない。


 そして、この「鞘の間」と、柳生正嗣という男が、その新たな危機に、何らかの形で関わっていくことになるのかもしれない。そんな予感が、玲奈の背筋をぞくりとさせた。

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