第8話:美女と絶望
玲奈が「鞘の間」で過ごす日々は、奇妙な二重性の中にあった。
一方では、埃っぽいアナログ資料と格闘し、柳生の掴みどころのない言動に苛立ち、一刻も早い本社復帰を願う焦燥感。
そしてもう一方では、自分が産み出したAI「ミネルヴァ」に関する不穏な報告が、日増しに彼女の心を蝕んでいく不安。無視しようとすればするほど、ミネルヴァはまるで呪いのように玲奈に纏わりついてきた。
「私はもう担当じゃない」と何度突き放しても、かつての部下や他部署の担当者からの問い合わせは後を絶たない。
彼らの声には、当初の戸惑いから、次第に焦りや非難の色が混じり始めていた。
玲奈は、断片的な情報をつなぎ合わせ、水面下でミネルヴァが深刻な問題を引き起こしつつあることを察知していた。
本社では、一体何が起こっているのか?神崎は、きちんと対応できているのか?知りたいような、知りたくないような、アンビバレントな感情が玲奈を苛んだ。資料管理課の、時が止まったかのような静寂とは裏腹に、本社ビルでは、見えない嵐が刻一刻と近づいている気配が濃厚になってきていた。
そして、その嵐は、ある朝、突然現実のものとなった。
玲奈が出勤すると、資料管理課の電話がけたたましく鳴り響いていた。柳生がいつものように静かに受話器を取る。
しかし、電話の向こうから聞こえてくる声は、尋常ではない切迫感を帯びていた。柳生の表情が、わずかに険しくなる。
「…落ち着いてください。詳しく状況を…ええ…はい…それは、いつ判明したんですか?…分かりました。こちらでも、関連する記録を確認してみます」
電話を切った柳生は、珍しく厳しい表情で玲奈に向き直った。
「桜庭さん、大変なことになりました」
「ミネルヴァ、ですか?」玲奈は、息を詰めて尋ねた。
「ええ。ミネルヴァが、来期の経営戦略に関する極秘データを、アクセス権限のない複数の部署に誤配信した、とのことです。しかも、そのデータの一部が、外部のジャーナリストにリークされた可能性がある、と…」
「なんですって!?」
玲奈は、血の気が引くのを感じた。
経営戦略の
「なぜ、そんなことが…アクセス権限の管理は、完璧だったはず…」
「原因はまだ特定できていないようです。ただ、ミネルヴァが何らかの異常な判断を下し、セキュリティプロトコルをバイパスしたのではないか、と見られています」
「異常な判断…」玲奈は、柳生が以前言っていた言葉を思い出していた。「嘘や間違いや悪意も、素直に学んでしまったのかも…」
事態は、玲奈の想像以上に深刻だった。
経営陣はパニックに陥り、情報漏洩の事実を
特に、玲奈を左遷に追い込んだ張本人である権藤専務は、自分の保身のために、問題を矮小化し、責任を現場に押し付けようとした。
ミネルヴァの後処理を担当していた神崎は、権藤専務から厳しいプレッシャーをかけられ、対応に追われた。
しかし、完璧主義者であるはずの神崎は、この未曾有の危機を前に、冷静さを失っていた。
彼は、技術的な対応を急ぐあまり、ログデータの解析を誤り、かえって原因究明を遅らせてしまう。
さらに、権藤専務からの指示で、漏洩の証拠隠滅を図ろうとしたが、それも中途半端に終わり、かえって疑惑を深める結果を招いてしまった。
追い詰められた神崎から、玲奈の携帯電話に直接連絡が入ったのは、事件発生から二日後の夜だった。
「桜庭…!頼む、助けてくれ…!」
電話口の声は、かつての自信に満ちた響きを失い、明らかに狼狽していた。
「どうしたの、神崎君。落ち着いて」
玲奈は、冷静に対応しようとしたが、心臓は早鐘のように打っていた。
「ミネルヴァが…俺の言うことを聞かないんだ!システムが、まるで自分の意思を持っているかのように、勝手に動いている…!もう、俺の手には負えない…!このままじゃ、会社が…俺が…!」
神崎の声は、悲鳴に近かった。玲奈は、彼がこれほど取り乱しているのを初めて聞いた。
「分かったわ。状況を詳しく教えて」
しかし、神崎は具体的な説明をする余裕もなく、「頼む…君しかいないんだ…!」と繰り返すばかりだった。電話は一方的に切れた。
玲奈は、呆然と携帯電話を握りしめた。
自分が産み出したAIが、制御不能の怪物と化している。
そして、かつてのライバルが、助けを求めてきた。
他人事ではいられない。いや、これは、もはや自分の問題なのだ。
玲奈は、突き動かされるように席を立ち、柳生の元へ向かった。
「係長、本社で大変なことが起きています。ミネルヴァが…」
玲奈が説明しようとすると、柳生は静かにそれを遮った。
「ええ、お話は、おおよそ察しております」
その落ち着き払った態度に、玲奈は逆に不安を覚えた。
「なぜ…そんなに落ち着いていられるんですか!?会社が大変なことに…」
「桜庭さん」柳生は、玲奈の目をまっすぐに見据えた。
「水面に映る月(=現象)の揺らぎに心を奪われてはいけません。見るべきは、天にある月そのもの(=本質)です。ミネルヴァがなぜ、そのような『判断』をしたのか。その根源を探らねば、本当の解決にはなりません」
柳生の言葉は、玲奈の混乱した頭に、冷水を浴びせるかのようだった。そうだ、現象に振り回されてはいけない。原因を究明し、本質を見極めなければ。それは、本来、玲奈が得意とするはずの思考法だった。
「根源…学習データ、ということですか?」
「それもあるでしょう。しかし、それだけではないかもしれませんな。AIは、鏡だと言いましたね。もしかしたら、我々大和産業という組織が持つ、歪みや、隠された願望のようなものを、映し出しているのかもしれない」
「組織の、歪み…?」
玲奈には、柳生の言葉がまだ抽象的にしか理解できなかった。
しかし、彼の言う通り、問題の本質を探るためには、ミネルヴァが学習した元データ、特に、その根源となっているであろう、古い記録を調べる必要があると感じた。
それは、この「鞘の間」に眠る、膨大なアナログ記録と向き合うことを意味していた。
「係長、お願いがあります。『禁書庫』へ、もう一度案内していただけませんか」
玲奈は、決意を込めて言った。あれから訪れることは無かったあの場所へ、アナログデータの墓場と忌避した場所へ自ら足を踏み入れることになるとは…
柳生は、何も言わず、静かに頷いた。
そして、再び玲奈を、あの重厚な鉄の扉の向こうへと導いた。
再び足を踏み入れた「禁書庫」は、相変わらず異様な空気に満ちていた。
しかし、今の玲奈には、以前感じたような単なる忌避感だけではなく、この場所に眠る「記録」が、現在の危機を解く鍵になるかもしれないという、わずかな希望(あるいは、最後の望み)が感じられた。
玲奈は、柳生の助けを借りながら、ミネルヴァの異常な判断に影響を与えた可能性のある記録を探し始めた。
それは、AIが学習した数十年分の業務データの中でも、特に「例外処理」や「特殊判断」が多く含まれていた時期の記録、あるいは、今回の経営戦略漏洩に関連しそうな過去の類似プロジェクトの記録に的を絞った。
膨大なファイルや簿冊の山。手書きのメモ、古いワープロ文書、走り書きの計算式…。
玲奈は、持ち前の集中力で、それらの記録を読み解いていった。
それは、彼女が慣れ親しんだデジタルデータの世界とは全く違う、骨の折れる作業だった。
しかし、読み進めるうちに、玲奈は気づき始めていた。これらのアナログな記録には、確かに、数値だけでは決して分からない、当時の担当者の意図や、組織内の力学、そして、隠蔽された事実の断片が、生々しく刻まれていることを。
「ここのファイルの記載者とこっちの記載者は筆跡がまるで違う…、ここで引継ぎが起きているけど内容に齟齬がある…」
「こちらの記載は…途中だけ紙質が異なっているし、新しい?」
アナログデータとして残る情報には、柳生が言っていたデジタル化できない情報の痕跡も確認できた…成程、玲奈にもその意味が見えてきた。
そして、玲奈は、あるファイルにたどり着いた。
それは、二十五年ほど前に行われた、ある新規事業開発プロジェクトに関する記録だった。
そのプロジェクトは、最終的に大きな失敗に終わり、当時の担当役員が引責辞任したと記録されている。
玲奈は、その失敗の原因分析の部分を読み進めていた。その時、ファイルに挟まれていた一枚の古い組織図に、見覚えのある名前を見つけたのだ。
「桜庭…
それは、玲奈の父の名前だった。父は、この失敗プロジェクトに、課長クラスのメンバーとして関わっていたのだ。
玲奈は、息が止まるかと思った。父が、大和産業に勤めていたことは知っていたが、具体的な仕事内容や、ましてや失敗プロジェクトに関わっていたことなど、全く知らなかった。
父は、ファンドマネージャーとして独立する前に、ここで働いていたのか…。
玲奈は、震える手で、関連する記録を読み漁った。
ファイルの中身は公式に会社内で提示された資料だけではなく、会議の議事録や担当各社のメモのやり取りや日報、スケジュール表から付箋のメモまでもが丁寧に補完されていた。
そしてそこには、玲奈が知らなかった父の姿が描かれていた。
プロジェクトの失敗が濃厚になる中、上層部の意向に逆らってでも、正しいと信じるデータを提示し、計画の修正を進言する父。
しかし、その声は派閥争いの中でかき消され、最終的に失敗の責任の一部を負わされる形で、会社を去ることになったらしい父の無念。
そして、記録の片隅に残された、父が苦悩の中で書き殴ったようなメモ。
「数値は正しい。しかし、組織が、人が、それを歪める…」
玲奈は、全身の力が抜けていくのを感じた。父は、単に「計算が狂った」から自ら命を絶ったのではなかったのかもしれない。
数値の正しさを信じながらも、それだけではどうにもならない組織の、人間の「歪み」に絶望したのではないか?
そして、その絶望は、今、自分がミネルヴァを通じて直面している問題と、奇妙に重なって見えた。父のトラウマが、単なる過去の記憶ではなく、現在進行形の自分自身の問題として、生々しく蘇ってきたのだ。
「お父様の…記録でしたか」
いつの間にか隣に立っていた柳生が、静かに声をかけた。
玲奈は、顔を上げることができなかった。
涙が、古い記録の上に落ちるのを、ただ見ているしかなかった。
「辛い記憶と向き合うのは、お辛いでしょう。しかし」柳生は続けた。
「過去から目を背けていては、前に進むことはできません。お父様の経験も、今の桜庭さんにとって、何かの『道標』になるのかもしれませんぞ」
柳生の言葉は、慰めでも、同情でもなかった。しかし、その静かな響きは、不思議と玲奈の心に沁みた。
玲奈は、涙を拭い、再び記録に向き直った。
父の記録を読み解く中で、玲奈はある事実に気づいた。
父が当時指摘していた組織内の問題点や、データの扱いの歪みが、形を変えて、現在のミネルヴァの異常な判断の根底に存在している可能性が高いということだ。
AIは、過去の組織の「病巣」とも言うべき部分を学習し、それを増幅させていたのではないか?
玲奈は、発見した事実と、それに基づく対応策の骨子をまとめ始めた。
しかし、それは単なる技術的な修正案ではなかった。AIのアルゴリズム修正だけでなく、組織の意思決定プロセスや、データの取り扱いに関する倫理規定の見直しまで含んだ、より根本的な解決策。
それを実行するには、経営陣の抵抗も予想される。下手をすれば、会社の「闇」にさらに深く触れることになるかもしれない。
※
玲奈が、その対応策の是非について思い悩んでいると、柳生が静かに問いかけた。
「桜庭さん。その一太刀は、会社を生かす『活人剣』となりますかな?それとも、問題をただ切り捨て、臭いものに蓋をするだけの『殺人剣』となるか…その見極めが肝要ですぞ」
単に問題を解決するだけでなく、その先にある、組織や人々の未来までを見据えた一手を打たねばならない。柳生の言葉は、玲奈に新たな視点を与えた。技術的な正しさだけではない、より大きな視座からの判断が求められているのだ。
玲奈は、深く息を吸い込んだ。
父の無念、ミネルヴァの暴走、神崎のSOS、そして柳生の言葉。
全てが、玲奈の中で一つの方向を示し始めていた。それは、単に本社に復帰するためではなく、この会社が抱える根深い問題と、そして自分自身の過去と、本当の意味で向き合うための戦いになるだろう。その覚悟が、玲奈の中で静かに、しかし確かに固まろうとしていた。
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