第6話:美女と花束
夕暮れ時の柔らかな光が、大きな窓から差し込む。
壁一面に飾られたドライフラワー、テーブルに並べられた色とりどりの生花、そして部屋全体に満ちる甘く優しい花の香り。
そこは、神崎達也の婚約者、
仕事帰りの神崎が、重い足取りでそのドアを開けると、エプロン姿の美咲が
「おかえりなさい!」
と太陽のような笑顔で迎えてくれた。
「今日は早かったのね、達也さん。お疲れ様」
美咲は、手際よくハーブティーを淹れてくれた。
カモミールの優しい香りが、張り詰めていた神崎の神経をわずかに和らげる。
彼はソファに深く腰を下ろし、窓の外の茜色に染まる空をぼんやりと眺めた。
この花々に囲まれた穏やかな空間と、美咲の屈託のない笑顔。それが、今の神崎にとって唯一の安らぎだった。
会社での息詰まるような日々…暴走するAIシステム「ミネルヴァ」、日に日に増していくトラブル、そして、
玲奈の部屋を訪れて見たのも、本心で彼女を貶めて揶揄うためではなかった。これまでの経験からも彼女は決して挫けず、持ち前のアグレッシブな行動力を発揮してすぐ後ろから逆襲されるのではないかという不安を払しょくしたいがための、稚拙な行動であったと反省している。
だが、今の神崎はそんな行動を自重できない程追いつめられていたのも事実だった。むしろ玲奈のカンフル剤になればいいくらいの打算が彼の中にあったのかもしれない。
あんなに希望に満ちて大和産業のロビーを潜って行った若き頃の自分が、エリートとしての道と信じて歩んで進んだ先にこんな問題が待ち受けていようとは想像もしていなかった…
美咲の居る場所はそれら全てから解放される、束の間のシェルターだ。
「はい、どうぞ」
美咲が差し出したカップを受け取りながら、神崎は努めて穏やかな表情を作った。
「ありがとう。…うん、美味しいよ」
「よかった。最近、達也さん、すごく疲れているみたいだから。少しでもリラックスできればと思って」
美咲は、神崎の隣にちょこんと座り、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。その純粋な眼差しに、神崎は内心どきりとした。彼女には、嘘や隠し事は通用しないのかもしれない。
「…ああ、少し大きなプロジェクトで、立て込んでいるだけだよ。心配ない」
神崎は、無理に笑顔を作って答えた。本当のことは、とても言えなかった。ミネルヴァが制御不能に陥っていること、自分がその責任を負わされかけていること…
そして、権藤専務から、問題の隠蔽工作に加担するように迫られていることなど…。
(失敗すれば、全てを失う…)
神崎の脳裏に、その考えがこびりついて離れない。
必死に築き上げてきたキャリア、エリートとしてのプライド、そして何よりも、この美咲との穏やかで幸福な未来。それらが、今、崖っぷちに立たされている。権藤専務は、執拗だった。昼間の会話が、耳の奥で不快に反響する。
『神崎君、君ももう若くない。今回の件でしくじれば、どうなるか分かっているだろうね?君一人の問題じゃないんだぞ。将来を考えているなら、賢明な判断をすることだな。美咲さん…だったかな?彼女を悲しませるようなことは、したくないだろう?』
それは、脅しだった。美咲の名前を出された瞬間、神崎は全身の血が逆流するような怒りを覚えたが、同時に、抗えない恐怖も感じていた。
専務の言う通りだ。もし自分が失脚すれば、美咲を路頭に迷わせることになるかもしれない。
彼女のこの笑顔を、幸せを守らなければならない。そのためには…今は、専務の言うことに従うしかないのか…?
「ねえ、達也さん」
考え込んでいる神崎に、美咲が声をかけた。彼女は、窓辺に置かれた新しいアレンジメントの手直しをしながら、言った。
「このお花たち、見て。このガーベラ、ちょっと首が曲がっちゃってるし、こっちのバラは少し開きすぎちゃった。完璧じゃない子たちばっかりなの」
美咲は、悪戯っぽく笑った。
「でもね、こうやってみんなで集まって、お互いを支え合うと、なんだかすごく綺麗に見えない?一本一本が完璧じゃなくても、全体でバランスが取れていれば、それでいいのよ。無理に完璧を目指さなくても、大丈夫なのにね」
その言葉は、何気ない呟きのようだったが、完璧主義の鎧に身を固め、不正に手を染めてでも自分の地位を守ろうとしている神崎の心に、鋭く突き刺さった。
支え合う…?今の自分は、誰かと支え合おうとしているだろうか?むしろ、保身のために、かつてのライバルである玲奈を切り捨て、真実から目を背けようとしているのではないか?
(違う、俺は美咲を守るために…)
そう自分に言い聞かせようとしても、美咲の純粋な言葉の前では、その言い訳は空しく響いた。罪悪感が、鉛のように神崎の胸に重くのしかかる。
「…そうだね。本当に綺麗だ」
神崎は、ぎこちない笑顔で答えた。そして、重苦しい空気を振り払うように、話題を変えた。
「美咲、今度の週末、どこか景色の良いところにでも行かないか?少し、気分転換がしたいんだ」
「まあ、嬉しい!どこへ行く?」美咲は、すぐに笑顔になった。
「まだ決めてないけど…海が見えるレストランとか、どうかな」
「素敵!楽しみだわ!」
美咲の嬉しそうな顔を見ると、神崎の決意は、さらに歪んだ形で固まっていくようだった。そうだ、この笑顔を守るためだ。
そのためならば、今は一時的に、手を汚すことも厭わない。権藤専務の指示に従い、この危機を乗り切る。そして、全てが片付いたら、必ず…。
美咲は、神崎の内心の嵐には気づかず(あるいは、気づかないふりをして)、楽しそうに週末のデートプランを話し始めた。
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