玖
「――痛いな。客寄せの次は座敷牢か。随分と舐めた扱いをしてくれる」
「舐めた、だと? どの口が言う。手違いで買われた男子なぞ、あのとき殺してやってもよかったのだぞ」
楼主はもう憎々しげな表情を隠してすらいなかった。黒く澱んだ目、わななく唇が怨嗟の言葉を投げかけながら、座敷牢の鍵をかける。
「はっ――その手違いでここまで見世を大きくしたんだ、いい買い物だっただろ? 割れた茶器は金継ぎに――こんな牢で俺を閉じ込めるたあ、勿体無いじゃねえか」
「ほざくな。次にその耳障りな声を出してみろ、その舌捩じ切ってくれよう」
鈴蘭はひょいと首を引っ込めてみせた。楼主を呼ぶ声が上から聞こえる。座敷牢のある場所は地下、まだ若い小雪は当然ながら遊女たちどころか、男衆でもその存在を知らない者は多いだろう。のしのしと階段を上がった楼主が姿を消したのを確認して、鈴蘭は隠し持っていた竜胆の簪を握り締める。
竜胆。初めて出会った時から、まっすぐな目をして遊郭の勝手もわからない『小娘』が来たものだから興味を惹かれていた。親きょうだいの亡霊を背負い、必死に生きてきた娘。自分の名前も失くしたのなんて遊郭にはたくさんいるが、あの娘は太陽の似合う市井で同じ痛みを持って生きていた。そんな存在がひどく哀れで、眩しくて、どうにか傍に置いておけないものかと思ってしまうほどに。こんなに汚い俺を、あんたは『おまえの価値を利用してみせろ』なんて言うから。
このどうしようもない生に、意味が生まれてしまったんだ。
「――簪。渡せなくて、ごめんな。贈ってやりたかったなあ――」
鈴蘭はしばらく、そっと簪の細工を撫でていた。もう会うことはない娘の髪に、美しい青色が凛と映えていたのを思い出す。しばらくそうしていたけれど、さてと鈴蘭は簪を髪に飾った。
「俺は――もう、逃げない」
鈴蘭は竜胆を想う遊女として死ぬ。市井にもやがて鈴蘭太夫は男だったと噂が広まってしまうだろうが、それでもいい。ここで、誰にも知られず辞世の句でも読んでやろう。竜胆は天下一の美しい花魁を篭絡した男としてか、訳ありの男に言い寄られた哀れな商人としてか、いずれか分からないが噂になるだろう。そうすれば、少しは男として生きやすくなることだろう。最後の贈り物だ。天下の花魁が命を散らすのだ、せいぜい死体の美しさに見蕩れて真実の一つも見えなくなっていればいい。
鈴蘭は少し躊躇ってから、がぶりと右手の人差し指に食らいついた。指の腹を食い千切る痛みに冷や汗が出る。口の中に広がる血の味にえずきそうになりながら、一文字一文字、辞世にと決めた句を壁に書き付ける。
『りんだうの花とも人を見てしかな かれやははつる霜がくれつつ』
「――蘭、――鈴蘭――っ!」
「――竜、胆――?」
「! 鈴蘭、そこにいるのか!?」
痛みで馬鹿な夢を見ているのだと思った。
竜胆がここにいることなどありえない。あのとき、確かに小雪に伝言を残した。
(竜胆を頼む)
花魁・鈴蘭は男だったが、『同じ男である』竜胆を深く愛し、辞世の句とともに地下牢で散る。そしてそのあと、新たに遊女となった小雪のもとに竜胆は通うだろう。はじめは鈴蘭の想い出話のためかもしれないが、やがて小雪自身が竜胆のよき友人となるだろう。そう思って――そう思うことで、未練も何も捨ててきたつもりだった。そのつもりだったのに。
声は天井から聞こえた。誰かの部屋なのか、物置なのか、それすらもわからないが、ここが地下であるということはこの上には部屋がある。そんなところまで、どうやってか忍び込んで探しに来たのだ。ただ鈴蘭がひとりだから。それだけの理由で。――そんな。
「――馬鹿か竜胆、帰れよ! こんなところで騒ぎを起こしたら、楼主に――!」
「そんなのはどうだっていい! 小雪という禿だったか、あの子が光満屋の旦那を通じて言伝をくれた。なあ鈴蘭、ここから出よう! 私はっ、私は、何がなくたっておまえと居られればそれでいい! どこかの町で暮らそう、花だって見に行こう!」
「っだから、そんなのもう無理なんだよ! 俺はあんたが、――あんただけが生き延びてくれれば、それでちゃんと死ねたんだ!」
「おまえと町を歩きたい、花を見に出かけたい、簪だって私一人じゃ使い方も知らないんだ、お前に教えて貰わなくては意味がない! 私は――わたしは、ずっとおまえと共に行きたい!」
「そんな夢物語に縋ってどうする! 俺はもうどのみち殺されるんだ。なのに、こんなの――あんたまで殺されるだけだろうが!」
ああ、もうきっと遅い。手遅れだ。頭の上、竜胆の声に誘われるようにどかどかとやってくる荒い足音。「いたぞ、侵入者だ!」「かかれ、かかれ!」その声に続くように始まる打撃音。金属同士が擦れあう音――竜胆が、賊として囲まれているのだろう。そして応戦しているけれど、きっとあまり長くは持たない。ただでさえ男と女の力の差があるのに、多勢に無勢ではあまりに――竜胆の分が悪い。
「鈴、蘭ッ!」
「!? 馬鹿かあんた、喋ってる場合じゃ――!」
「約束する、ッ今度はきっと迎えに行く!」
息が、止まってしまいそうだった。
それはあまりにもあっけなく、無慈悲にぶつけられた言葉だった。
何も考えられなかった。何も思えなかった。ただ、熱い何かがこみ上げて、ひたすらに頬を濡らしていくのがわかって、喉の奥からせり上がってくる叫びを、ただただ吐き出していた。
「馬鹿か――馬鹿か、馬鹿か馬鹿か馬鹿か、竜胆! 嫌だ、置いていくな! 嫌だ、どうして、どうして! 嫌だ、嫌だってんだよ、なあ!」
自分が何を叫んでいるのかもわからなかった。ただ、「竜胆が死んでしまう」ということだけが、強く頭を占めていた。
「嫌だ、嫌だ嫌だ、死ぬな! なあ、死ぬな、死なないでくれよ――!」
――ドサッ。
「――竜胆――? おい、聞こえるか――返事をしろ竜胆、なあ、竜胆!」
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