「店番ご苦労だった、惣之助」

「竜胆の旦那ぁ! これ、こんな帳簿知らねえでさあ!」

「はは、それは失礼な。私は出来ない仕事を言いつけた事などないぞ。――おい、目をそらすな」

 帳簿のつけ方を教えてやる、と言ってまずはと書き写すところから始めたのが今日だった。相変わらずの粗忽者は馬鹿な間違いばかりで読み書きを覚えるにも随分時間をかけてしまったので、内心竜胆は焦っていた。鈴蘭の年季が明けたら、それはいつの話になるのだろう。それまでに、きっと私はこの粗忽の惣之助に店をすっかり明け渡してやらなくてはならないのだ。時間があるのかないのか、それすらもよくわからない。次はいつ会えるだろう、今度は文でも書いてやるか――そんな夢想をしている時だった。

「りっ、竜胆殿! 竜胆殿は居られるか!?」

「? これは、光満屋殿! そう慌ててどうなされた、まずは茶を――」

「イヤそれが、そうも言っておられぬ自体なのです。小雪という禿をご存知ですか」

 小雪。名ばかりは知っていた。確か――桜花楼の次期筆頭花魁といわれる、鈴蘭付きの禿。

「――鈴蘭に、何かあったのか?」

 その言葉は驚くほど静寂を打った。は、と息を飲んだのは惣之助だった。

「鈴蘭太夫っていやあ、旦那の――」

「小雪殿が、鈴蘭太夫は男だったと」

 がつん、と。

 頭を強く殴られた心地がした。

「――私も半信半疑です。だが、ええ、確かに――ゴホン。昨日急に、吉原は桜花楼から文が届きましてな。なんでも小雪という禿の水揚げをする。小雪は楼にたびたび来ていた私を水揚げの相手にして欲しいと願っていると――そういった文でした」

「私は初めて小雪太夫――エエあの品格はまさに道中で見かける花魁太夫そのものでした。何かを悟ったような、決意したような――小雪太夫は人払いを済ませると、挨拶もそこそこにこう私に話を持ちかけてきました」

『御前様は確か、かたばみ屋の竜胆殿と親しくしておられると聞きんした。わっちの水揚げを代価に、必要ならばこの先何度でもわっちの出来る範囲の頼みならば聞きんしょう。その代わりに――ただ何も聞かず、この事実と言伝を竜胆殿にお伝えくんなまし』

『鈴蘭姐さまは男の身でありながら、誰よりも美しく、けれど寂しい御方でありんした。それを奪ったのは竜胆様、』

『――ひとえにあなたの存在でありんす』

思わず竜胆は店を飛び出そうとした。だって、小雪とやらがそれを知っているなら、鈴蘭は、あのひとは。――鈴蘭は今、どうしている?

それを諌めたのは2つの手だった。嗄れ節だった光満屋の手が竜胆の前に差し出され、静止される。

「竜胆殿。今貴殿を動かしているものが騙された怒りか、はたまた別の何かか――私は存じません。存じませんからこそ、商売仲間として、イヤ商人として歳だけは重ねた老爺心から申し上げるのなら、今は行くべき時では無いでしょうな」

「っだが、あいつが!」

「いいですか、竜胆殿。あなたが恋に狂えば、この店はどうなるのです。先代、先々代のご当主が積んできた知恵は? そしてなにより、惣之助くんが哀れだ」

「――惣、之助――」

 もう一つ、竜胆を行かせまいとした腕。細くひょろりと長い、若男の腕。惣之助は何かを言いたげな、しかし言葉に詰まったような顔をしてちらちらと竜胆、光満屋のふたりを交互に見遣っていた。

「竜胆殿。あなたは覚えておらなんだろうが、私は先代のご当主と親しくてですな。よく聞かされておりましたよ、――本当はもうひとり、竜胆殿の妹御がおられたと。そして成長した竜胆殿を見たとき、きっとよく似たお顔立ちの『ごきょうだい』がおられたのだろうと思ったものです」

「っ、」

 竜胆は瞠目し、やがて肩を落とした。

「――はじめから」

 その声はいつもの凛と涼やかな声音ではなく、わずかに柔らかい。その変化に気付いてか、はっとした顔の惣之助は何かを考え始める様子だった。

「はじめから、光満屋殿にはすべてお見通しだったと。――それはまた、性の悪いお方だ」

「よく似た、妹さん――そんで、たしか竜胆の旦那は――お屋敷の火事の時、ひとり生き残った」

 惣之助が、何かを確かめるように呟く。

(――ああ)

 竜胆は一度だけ嘆息した。随分あっけないものだ。もう、亡霊の仕事は終わりか。

「言ってみろ、惣之助」

「竜胆の旦那、あんたは――火事で生き残ったって割には、どこにも火傷のあとがない」

「そうだ。それまでの『私』は人目につかぬよう、石蔵に篭って暮らしていた」

「旦那は、いつも自分専用の風呂を用意していた。はじめは潔癖なお人かと思っていたけど、菓子なんかは平気そうに俺とも皿を囲む」

「ああ」

「旦那は――イヤ、あんたは――かたばみ屋の、元のおやっさんの――娘」

「――ああ。私は、お前の雇い主『竜胆』は、女だ。本当の竜胆は、私の兄。――私は、今までずっとおまえを騙してきた、たちの悪い亡霊だ」

「っ、それは!」

 惣之助は言葉を探すようにもごもごと口を動かした。それから、意を決した態度でひたと竜胆を見据える。

「あんたは、俺の尊敬する、立派な当主様でさあ。俺にとっちゃ、亡霊は兄貴のほうでい!」

 事態を静観していた光満屋が、くふくふと笑いながら竜胆の頭を撫でた。それから次に、惣之助の背をばしりと叩く。

「いい当主に、見込みある奉公人じゃあないですか」

「ああ。――本当にな」

 竜胆は惣之助のひょろ長い背丈のせいで、今までキチンと目を合わせて話したことは少なかったな、と少し思った。そこで惣之助を見上げるように目線を合わせる。

「惣之助」

「へい。旦那」

 竜胆はそこで深く頭を下げた。

「頼む。私は――愚かだとわかっている、捨てちゃいけないものだとわかっているんだ! それでも、あいつを今は、――鈴蘭を助けたいんだ」

 喉がからからに乾いていくのが分かる。産まれてこのかた、自分の我侭で頭を下げることなんてなかった。これは店のため、これは客のため、良き当主であればきっと兄様も母様も笑ってくれる。そんなもの――今は何一つ考えていられない!

「無理を承知で頼む、この店をお前に託したい。光満屋殿も、商人の先達として惣之助に手を借してやってほしい。生き残りの亡霊はもう終わりにしたいんだ。私は、私はあいつを、ひとりで死なせたくない! ――ようやく見つけた、亡霊じゃない『わたし』の、――大切なものなんだ!」

 頼む。頼む。頼む、どうか。どうか!

 竜胆は必死になって頭を下げ続けた。困惑していた惣之助と光満屋が我に返って、まず光満屋が竜胆の背を撫でた。

「小雪殿の馴染み客である私の使いだと名を出せば、顔さえ隠せば見世には入れるでしょうな。よろしい、私から小雪殿に菓子なぞ贈りましょう」

「旦那の服は育ちが良すぎて目立つんでさあ。俺の服を貸しますんで、ささ、奥で着替えていってくだせえ」

「光満屋、殿。惣之助まで――いいのか?」

 惣之助はにっと笑って、あとは何も言わなかった。光満屋の主人が、「サァこれを」と言って、包んだ菓子と文を持たせた。

「――ありがとう」

竜胆もそれきり、何も言わなかった。ただ立ち上がり、少し迷ったあと、いつもは持ち歩かない短刀を腰に佩く。

(もう、置いていかれるのは――沢山だ)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る