(――いつか、な。この希望は、信じられそうだ)

一人になった部屋で、鈴蘭は静かに思う。だってどうやら竜胆は、鈴蘭をただ妹の身代わりにする気はないようなのだ。竜胆はただの客でもなければ、ただ自分を慕う禿たちでもなく、況してやあの楼主のように鈴蘭を遊女に仕立て上げる気もない。ただ竜胆は「利用して見せろ」と言った。それがどれだけ得難い言葉だったか、きっと彼女は知らない。鈴蘭は簪を手の中でもてあそんだ。さっきまで彼女の髪を飾っていた簪だ。彼女の黒髪によく映えたそれは、今までどんな客から贈られたものとも、楼主から賜ったものとも違って見えた。

(あんたが生きろと言うなら、せいぜい足掻いてやろうか。この牢獄から、いつか出て行ってやるさ)

「鈴蘭」

「!」

 襖の向こうから年老いた声がかかる。鈴蘭はさっと簪を隠そうとして――その前に、襖が開く。

「あんたか。親父殿」

「簪を買ったそうだな」

「ただの簪だろ。手持ちのものとは意匠が違っていたからな、たまにはこんなものも買ってみようかと思ったわけだ」

「市井では噂になっているな。竜胆――かたばみ屋の若当主か。おまえの客として、2度ほど来ているな。とうとう惚れでもしたか」

「馬鹿な! 安心しろ。ちょっとした手練手管、あんたが俺にやらせてきた花魁様のお仕事だ。そうだろ?」

「さてな」

「あんたがいつまで俺を使う気か知らないが――俺ももう、花魁としちゃあ長くないだろうからな。せいぜい使われてやるよ。感謝しな」

「――ほう。どういう心変わりだ?」

「さあ。あんたに情でも湧いたんじゃないか」

「喜ばしいことだ。――本当に、喜ばしい」

「――なんだ」

「おまえが花魁としての自覚を持ってくれて、嬉しい限りだ。鈴蘭や」

「何、を――? っ、それに触るな!」

 鈴蘭のもつ簪に、無遠慮な手が伸ばされる。それを咄嗟に庇い、鈴蘭ははっと顔色を変えた。

(まずい。この簪は、『何の意味もないもの』でなくては。でも、これは――!)

「ほう――? はて。これは、ただの気まぐれで買ったものだと聞いていたが」

「あ――あ、ぁあ、」

(どうする、どうするどうする! こうなってしまった以上、どう転んでもあいつに火の手が――なら!)

 鈴蘭は楼主の手から竜胆の簪をひったくるように奪うと、ぎゅっと胸元に抱え込んでみせた。いっそ、あからさまなほどに。腹の底から大声を出す。だれかが駆けつけて、この声を聞いてしまえと祈りながら。

「――ああ、クソッ! そうだよ、俺が買った、この俺があいつを想って買った大事な大事な品だよ!」

 階下から小さく声が駆け上がってくる。「なんだ、男の声? 揉め事か?」「鈴蘭太夫の部屋だ!」「鈴蘭太夫の部屋から男の叫び声が? まさか、侵入者?」まだだ。まだ、もう少し声が大きくなってくれれば。

 もう何年と声を張ったことのないせいで喉が焼ききれてしまいそうだ。喉奥が熱い、熱いのは血が滲んでいるからだとせり上がってきた錆の匂いに自覚する。

「俺が柄にもなくあいつに惚れたんだ、それだけだ! あんたに買われてから男娼として働くこともできなきゃ足抜けもしなかった、だから初めてだったんだ、あいつが――『同じ男』だと知りながら!」

「鈴蘭! ――大声を出すんじゃない、牢に閉じ込められたいか!?」

「なんだっていい、ばれるならばれちまえ、こんな大嘘なんざ!」

 ちらと廊下の端を見やる。ああ、そうだ。あんたならきっとかけつけて心配そうに覗き込むことも、男衆の中において非力な自分が飛び出しても何も出来ぬからと部屋の隅から見るに留めようとすることも知っていた。俺の禿。俺の妹分。俺の、ああ、あのとき、そういえば妹はつつけば泣きだしそうな目をしていたんだった。ちょうど今のおまえみたいに。

(こ ゆ き 、)

 それはいつか「姐さまはお声が出せのうてありんす。けど――わっちは、小雪は姐さまとお話がしてみとうて。これなら思うて、考えんした」そう言ってちまちまとまだ幼い手を動かした、手遊びのようなもの。今、それが伝わるのはこの場でたったふたり。当人である小雪ははっと目を見開いて、涙を拭うのも放り出して小さく動く鈴蘭の手先を読み取った。

(り ん ど う に)

「ええいやかましい、人払いをしていたから内容までは聞かれておらんものを! 儂との約束を違えたな、違えたな鈴蘭!」

「ハッ、じゃあ次は何だよ打ち首か? 牢に監禁か? さすがのあんたもここまで来て、まだこの『俺』を見世に出そうなどとは思うまいな!」

 楼主の顔が憎らしげに歪む。小雪はそれでいて鈴蘭だけを目に収めていた。

(なんだ。俺には遊女の才は無かったが、一流の遊女を仕立てる才はあったのかもしれねえな)

 怒りと思慕。別れをきっと予感した涙を、この娘は流そうとはしない。そうだ、遊女とは斯くあるもの。感情さえも操り、持つものすべてを投げ出すことなく使い切れ。もしも恋に落ちたとして、それがどうしようもない恋だとして、己にできることはすべて手を打ってみせろ。その先に何を見たとて、それが己の在り方だと、在り方だったと胸を張れ。

「――男の体じゃあ、もう保ってあと幾年だ。女として外の世界に出ることは叶わん。それは俺自身が一番わかってる」

「ならば、何故こんな真似をした! 貴様のせいでこの見世は、儂の築いてきたものは――!」

(た の む 。 お れ の)

(か わ い い 、 こ)

 視界の端、小雪が音を消して立ち去るのを見た。まだぶつぶつと未練がましくつぶやく楼主の連れてきた世話役に引きずられ、俺はきっとこれから座敷牢かなんかに詰め込まれるのだろうな、とちらと思った。

(――だけど、なあ竜胆、守ったんだぜ。この簪だけは。今まで出したことねえような声で怒鳴り散らして、みっともねえよなあ)

(でも)

(すまないな、竜胆。あんたとの約束のほうは、守れそうには――ない)

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