陸
「――というわけで来たが、どういうつもりだ」
二度目にして見慣れた豪奢な部屋に通された竜胆は、襖の外から人の気配が消えたのを確認した途端、ぎろりと鈴蘭を睨めつける。鈴蘭は見た目ばかりは完璧な所作で、しかし笑いを含んだ低い声を隠そうともせずに頭を垂れた。
「お待ちしておりんした、竜胆の旦那」
「白々しい。あれはどういうつもりだと言っている」
惣之助ならばぴしりと直立不動になること請け合いの目力に、鈴蘭は片眉を釣り上げるように不満げな表情を作ってみせた。
「つれないな、人が折角仕事を全うしてやったと言うのに」
「聞け」
「嫌だね」
「おい!」
「うん?」
鈴蘭が小首をかしげる。その仕草は様になっていて、嫌になるほど愛らしい。竜胆は米神に青筋を浮かべながら呼吸を整えた。すう、はあと幾度か深呼吸をして、声音を落ち着ける。
「――簪を買ったそうだな。竜胆の細工は、私の名に掛けたものだと散々冷やかされた。だいたい、一夜を共にしたわけでもないというのに、どうしてこんなに噂になっているんだ。一体どういう客の取り方をしてきたらこうなる!」
「はは、そんな面白いことになってるのか」
鈴蘭がくしゃりと破顔する。弾けるように笑い、それを袖で隠して声を殺すさまはまるっきり市井の少年と同じだな、と竜胆は思う。
「いやあ、悪い悪い。だがな、俺と同じ部屋で酒を飲んだのはおまえが初めてだぞ。誇れよ、『色男』さん」
「お前なあ――本当に何のつもりだ。わかっていて揶揄っているなら質が悪いぞ」
鈴蘭は愉快そうな笑いを隠せないまま、部屋の隅に置かれた箱に手を伸ばす。着物が重そうだな、と思ったので、竜胆はそれを代わりに取ってやった。
「ついに男に目覚めたかと、親父殿……楼主の顔が面白かったもんでな。――すまん、冗談だ。だからそんなに怖い顔をするなよ」
「おまえな――」
竜胆は頭痛をこらえるように頭に手をやった。この男の事情は聞いた話ばかりだが、少なくとも鈴蘭の性を知る楼主はそれがばれることを良しとしないだろう。
「悪かったって。実際そんなことになったら、俺は今頃、座敷牢行きだ」
「悪い意味で有り得そうな冗談を言うな、肝が冷える」
「ご心配、どうも。有り得るかはともかく、以後慎むさ。安心しろ、別にあんたを揶揄うために買ったわけじゃない」
「おまえが自分で使うために、髪飾りなど買うと? 私は遊郭の習わしには詳しくないが、飾りや服を贈られて鈴蘭太夫が喜んだとは聞いたことがない。自分を飾り立てるのは好かないたちだろう」
「いや、本当にたまたま見つけたんだ。――よいせっと」
「おまえも見目に合わず、親父臭いな」
「うるせえ」
鈴蘭は軽く竜胆に返すと、漆塗りの箱を開けた。
「呉服屋にこれが竜胆の花だと聞いてな。おまえに似合いそうだと思った」
「私に――か?」
鈴蘭の手の中で、大ぶりな青い花――竜胆の花が揺れる。凛と咲くその花と竜胆を見比べて、なるほどこれは似合いそうだと鈴蘭は内心頷いた。
「綺麗な細工だろ? 江戸つまみの簪で、職人の一点ものだそうだ。柄としてはちと珍しいが、黒髪に映える良い柄だと言っていた。――ちょいと失礼」
鈴蘭の美しい顔が、白い細腕が近づく。竜胆は目を見開いたまま、鈴蘭の腕が離れて行くまで動けなくなってしまった。鈴蘭はさっと竜胆の髪に触れると、ざっくりと一つに結ばれていたそれを纏め上げてしまう。白いうなじが映えて、目に毒々しいほどに青が似合うと思った。
「ああ――確かにこれはいいな。あんたによく似合う」
その顔があんまりに微笑ましいものを見る顔なので、竜胆はいよいよ何も言えなくなってしまった。もにょもにょと口ごもり、なんとか次の句を探す。
「私、は、別に――このなりだ。――簪が似合うも似合わないもないだろう」
「良いだろ、細かいことは」
「細かくはないだろう」
「いいや良いんだ、そういうのは。――ああそうだ! そのときの呉服屋がな、色々と語ってくれたんだ。なんでも花に目がないってんで、小雪……禿と少し話させたんだ。それによると竜胆ってのは、上を向いて花をつけ、群生せず一本ずつ咲くんだと聞いた。な? ――あんたに似ているだろ。すごく綺麗だ」
「――っべ、つに――」
まっすぐに視線が合う。それが擽ったくて顔を背けたらしゃなりと簪の飾りが音を立てて、竜胆はもうどうしていいやら分からなくなってしまった。
「――なんてな。あんたに贈ろうと思っていたが、使えないんじゃ仕方がない」
「――あ――ああ。吉原いちの花魁に簪を贈られたとあっては、私の立つ瀬がないからな」
「? なんだ、顔が赤いぞ。もう酒が回ったのか? ――俺が持ってるのも可笑しいが、あんたが持つよりか言い訳も立つ。残念だが、これは俺のところに置いておくことにするよ」
鈴蘭がいつもの調子でそう言いながら簪をしゅるりと解いてしまったので、「これは何がどうなっているんだ?」「うわっやめろ! 折れたらどうするんだ、この馬鹿もん」などと小競り合いをしながらも目で鮮やかな青を追った。
「簪に関しては、そうしてくれ。私が持っていても使うあてもない。――それと、どさくさに紛れて徳利から直接酒を飲むのはやめろ」
「ばれたか」
――当然だ。
ちろりと赤い舌で酒を舐める仕草に、どれだけ目を遣っていると思っているのか――否、気づいていないのか。この鈴蘭という美しい娘のなりをした男は、見た目だけならばたしかに極上品である。酒を煽る唇、伏せられた華やかな瞳を縁取る睫毛は長く、くるんと上向いたさまは羽ばたくよう。白い柔肌を覗かせる着物やうなじ、頬は少しの紅を刷いただけでかくも情を煽ることができるのか。竜胆には男の欲がわからない。けれど、鈴蘭に妓女らしい艶を見つけたとき、少女めいたあどけなさを見たとき。「嗚呼こうも美しいものがあるのだなあ」と、小鳥でも捕まえるように抱き込んで、ひょいと仕舞いこんでしまいたくなる。――徳利?
「おっ、お前! 徳利から、直接、酒を煽って、どうするっ!」
「ざァんねん、俺の方が少しばかり背が高くてな。ほれほれ、跳べ跳べ子ウサギさん。脚力がつくぜ」
「だから! そのっ、腕と、徳利を、下ろせって、――ひゃっ」
体制を崩し転びそうになる竜胆。鈴蘭は咄嗟に支えるが、そこは重苦しい着物姿の遊女である。完全に支えることはできず、 徳利が割れないように抱えたまま体制がまた崩れる。
「おっと」
「! す、すまん」
もつれ合うように転がっていたことに気づき、鈴蘭はにやりと笑み竜胆はぱっと目をそらす。ためらいを含むようにそっと、鈴蘭が竜胆の髪に触れた。
「――な、なんだ。この前は――簪をつけてくれたときは、そんなにこわごわ触っていなかっただろう」
「いや、――その。小雪――ああ、俺の側使えのようなことをしている禿がいてな。あの子が水揚げされるときのことを、考えていた」
竜胆はその少女に見覚えがあった。まだ十にもならないものの、美しい所作と礼儀、媚びた視線とたおやかな化粧を身にまとった子ども。――私を抱え込みながら何を考えているんだ、との気持ちが少しばかり止まないが、ともかくそれはこの楼で小雪の姐である鈴蘭にとってはまさに父が幼き娘を売り払うような心地だろう。
「俺の水揚げは十二のとき――楼主様直々になさったことにされていてな。当然、何もなかったわけだ。――だから俺は、あの子に何もしてやれない。小雪は発育がよくてな、十を超えたらすぐに客を取るかも知れないぞと言われているんだ」
いつの間にか、鈴蘭の手が竜胆の長い濡れ羽色を梳かしていた。その手がひどく冷たいので、竜胆はそっと手のひらを重ねてやった。
「あの子は――こんなふうに誰かに触れられるんだろうか。それに、俺だってそうだ。年季がいつかも分からない、借金がどれほどのものかも――。今、鈴蘭太夫はどれだけの価値を持っているのか。それがいつまで続くのか。――俺の終わりがわからないから、怖いんだ」
「――それは、この前の話の続きか?」
竜胆はつとめて柔らかな声を出した。いつの間にか繋ぎあっていた手に、きゅうと力がこもる。
「お前が何両、何文、何銭で売られてきたかなぞ、私は知らん。お前の思う己の価値がその値段のままならば、それはまあ、怖くもなるだろう。――だが今のお前は、『花魁』鈴蘭だろう。簪のひとつ、視線のひとつで人を動かせる存在だ」
「それは――そうだが。それでも俺は、妹の代わりに捨てられたんだぜ」
「ならば聞くが、お前の御令妹は遊郭に面白い客が来たからと、わざわざ掛詞のような簪を用意してまで町に噂を立てるのか?」
「悪かったって、言ってるだろ。不満か」
「なんだ、案外飲み込みが遅いな。私と出会った時点で、お前はもうそれだけの力を持っていたんだ。今更、何を怖がる必要がある?」
「そう、――かもな。――嗚呼。竜胆、あんたは強いんだな」
「剣なら幼い頃、兄に習った。今となっては私の体格ではとても使い物にならんが」
「そういう強さじゃない。あんたが俺だったらきっと、諦めることも絶望することもなく生きていける――ひとりで、咲いていられる。竜胆の花みたいな強さだ」
「――私は、強いわけではないさ。ただ、私は――、」
私はただ、守ろうとしただけなのだ。けれどそれを、守られずに生きてきた鈴蘭に向かって言ったところで、それはただの懺悔だろう。だから竜胆は唇を釣り上げて、別の言葉で誤魔化した。
「皮肉なものだな。兄上や母上、生きるはずだった者が居なくなり、産まれてはいけなかった私が生かされた」
「――、」
「私は強くなどない。ただ、生かされてしまっただけだ。言っただろう、贖罪だと。本当はそんな綺麗なものじゃない。私だけが生き残ってしまった、家族は、私を生かした世界は失くなってしまった。耐え切れなくて、兄上を生きる理由に使った。最も、その建前もこの見た目じゃあ、いつまで続くやら分からないが」
そう言った竜胆は、胸に手を当てる。予兆はあった。わずかにふくらみを帯びてきた体つき。多忙故に毎月ではないが、そのぶん時折訪れてはひどく痛む月のもの。どんなに声を低くしてみても、「竜胆の旦那は御声まで若々しいねえ」と言われるまろやかな声音。
「私はただ、兄上たちに誇れる生き方をしようと思った。でもそれには、制限時間がある。もうきっと限界だ。そうなったら、どうすれば生きていかれるんだろうな。そればかりは、私も見当がつかん」
「――ああ、同感だ。けほ、」
「喉が痛むのか」
「仕方ないさ。俺はおまえと楼主殿の前でしか口を開くことはない。それに加えて、毎日声を高く保つためにと薬が煎じられていてな。きっともう、俺の体も――『鈴蘭太夫』として生きるには、力不足だと断じられる時が近いだろうさ」
「遊女には、楼を出る方法はないのか?」
「あることにはある。が――それがまた、俺には到底できないような方法でな。真実想いあった芸妓と客が大金はたいて輿入れ(結婚)だなんて、聞いたことがないわけじゃないだろう? ま、早い話が身請けだ」
「――だがそれは、楼主殿の望むところではないんだろう」
「いくら金を積まれたって、俺が身請けされちゃあ男だとほうぼうにばれちまう。詐欺だってんで、桜花楼まるまる一軒おとり潰しになったっておかしくないんだぜ」
「ああ――それもそうだな」
それではまるで手詰まりではないか。たとえば、竜胆が鈴蘭を身請けしてしまえば。最高級の花魁らしく知識もあり、頭の回転も速い美丈夫。きっと、今後の『竜胆』の役を誰かに託すなら、鈴蘭がいい。鈴蘭はただの「身請けされてきた元妓女」になるのだから、竜胆がその立場を貰えばいい。そうすれば二人、ひっそりと生きていけるのでは――。
「――なあ、鈴蘭」
「なんだ?」
「――いや。すまない、忘れてくれ。ただ、」
竜胆は結局、その思いつきを口には出せなかった。ここにいるのは吉原いちの花魁。その鈴蘭を身請けするとなれば、今日ここへ来るのに叩いた以上の大金がいる。大商人たる竜胆であっても、奉公に来ている惣之助だっているのだから、すぐには払えない額だ。それを貯めるまで、竜胆は『商人の男、竜胆』でいられるだろうか。そして、鈴蘭は尚の事。
「ただ、おまえからあの簪を、貰い受けたかったと思ってな」
「おまえがそれを言うのか」
鈴蘭は目を丸くした。それからそっと笑って、「そうだな」と言った。
それだけで、二人はなんだか、全てを分かり合えたような気になった。
「なあ、鈴蘭」
「うん?」
「鈴蘭の花は知っているか?」
「白い花だったな。強い毒のある、小さな花だと聞いた」
「見たことは?」
「無いな。花に興味を持ったのもこれが初めてだ」
「それは光栄だな。――竜胆も鈴蘭も、本物は細工で見るよりずっと可愛らしいんだ。小さい頃、兄が見せてくれたのを思い出した。お前にも見せてやりたいんだ」
「そこらに売っている花なら客の誰かが買ってくるさ。俺が見たことないってのはつまり、江戸でもあまり売られない花なんだろう?」
「ご明察だ」
「そうか、それなら――残念だ」
「ああ」
鈴蘭は痛む喉をさすりながら言った。
「どんな花なんだ?」
「鈴蘭か? 私も数える程しか見たことは無いが――白い、小さな花だ。鈴をいくつも吊り下げたような花が咲く。君影草だとか、谷間の姫百合などと呼ばれることもあるそうだ。綺麗なくせに、それはもう強い毒を持っている。花瓶の水を飲んだだけでも死を招くほどだそうだ。――お前とよく似ているな?」
「褒められた気がしないな」
二人はまじまじと互いの顔を見て、それから声を押し殺して笑った。きっとこんなに楽しげに笑っていては、誰ぞに届くだろうと思ったのだ。
「なあ、竜胆。もしも、そうだな、年季が明けたら――引退、とでも言えばいいか?」
「出来るのか?」
「この声だ、背丈だってそのうちに伸びる。あんたが若旦那に見えなくなるように、俺が遊女に見えなくなるのもそう遠くないさ。――だから、きっと――きっと、近いうちに年季が明ける。明けるはずなんだ。あんたがいてくれるなら、その『いつか』のために遊女でいることも出来そうだ。だから、―― そのときは、あんたが俺を迎えに来てくれないか」
竜胆は驚いて鈴蘭を見た。その瞳はまっすぐに竜胆を見てはいなかった。ああ、きっとこれはただの言葉遊びだ。すぐに察する。それでも、竜胆はそれに縋りたいと思った。
「ああ、そうだな。――約束しよう、そのときは必ず、私がお前をここから連れ出してやる」
「それは頼もしいことだ、大商人殿」
「からかうなよ。その代わり、私からも約束だ。私が迎えに来るまで、『鈴蘭』を殺すな。お前の価値を、『花魁・鈴蘭太夫』の名を利用してみせろ」
「――ああ。約束する」
鈴蘭と目が合ったので、竜胆はうんと頷いた。
「そうしてくれ。天下の花魁殿と約束事とは、贅沢だな」
「心中立てでもしてやろうか? 髪を贈るか、小指を切るか」
「要らん、遠慮しておく」
「それは残念だ」
鈴蘭は笑いながら、すっと立ち上がって居住まいを正した。竜胆も、そういえばもつれ合って転んだままだったと気付いて立ち上がり、襟を正す。一度だけ、二人の手が同時に簪へ触れた。
「――ではな」
「ああ」
今夜は少しばかり長居をしたな。きっとまた騒ぎになるのだろうな。そう思う竜胆の横顔は、少しだけ笑みを刷いていた。
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