さて、それから数日後の江戸である。竜胆はいつものように、江戸の町を歩いていた。惣之助は奉公に来ている身であるから、たまには店番を任せてやらねばなるまい。でなければこうして町を出歩くことも出来ぬ。あの男は粗忽者だがよく働こうとする熱意はあるし、竜胆の言いつけをよく守る。たまにはこんな日があっても良いな――などと、内心うんうん頷いていたところ。

「竜胆の旦那ァー!」

「惣之助? なんだ、朝から騒がしいな」

 店の方角よりばたばたと走ってくるのはその惣之助である。店の掃除を言いつけていたはずだが、さて惣之助ははたきを持ったままひょろ長い足を動かして必死の顔である。さては何かやらかしたかと、竜胆は惣之助の言い分を聞いてやることにした。

「どうした惣之助。日課の掃除は終わらせて出歩いてるんだろうな?」

「それどころじゃねえんで、旦那! 簪が旦那で、あの吉原の、」

「いいから落ち着いて一から話してみろ。――待て、吉原?」

 嫌な予感がする。

「旦那、あの鈴蘭太夫を買ったってえのは本当で?」

「は? 桜花楼の鈴蘭だよな。知らんが――まあ、顔は拝んだな。光満屋殿の紹介だ」

「ほ、本当だったんだ――鈴蘭太夫っていやあ、声も聞かしちゃもらえねえ気位の高い花魁だって噂じゃねえですか。その花魁が竜胆の旦那を客にとって、簪まで買ったってんでもう町中大騒ぎでさあ!」

「簪? いや、知らんが――」

「なんでも、竜胆の花をあしらった簪で、旦那のことを想って買ったとかなんとか」

「は? ――へえ――」

これはあれか、私は揶揄われていると。

惣之助が「矢っ張り噂は本当だったんでい!」「すげえや竜胆の旦那、あの鉄壁の花魁を落としちまった!」なんてなにやら騒いでいるが、竜胆はそれどころではなかった。あの野郎――なりは美しい花魁だが、それはともかくあの腹黒野郎。愉快犯。話を聞きに行ってやる!

「惣之助、私は少し用事を思い出した。今日の夕方には出掛ける、その間しばらく店を頼むぞ。掃除もきちんと終わらせておけ」

「お! 愛しの鈴蘭太夫に会いに行くんで?」

「は? 愛しの、って――そんなわけがあるか! 放っとけ、帰るぞ!」

 脳裏に浮かぶ美しいかんばせがにやにやと笑うのを掻き消すように、竜胆は少し荒い足音で歩き出した。

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