肆
「――駄目だ。遊郭だなんて――やはり、俺には向かないな。光満屋殿に強く勧められたから来てみたものの――どうすればいいんだ?」
遊女――花魁、鈴蘭太夫の部屋。つんと目をそらし、氷でできた花のような美貌を扇子で隠したその遊女は、どうやら声を事故で失ったのだという。以降、客を気まぐれに取ることはあれど一夜を共にしたものはどんな常連であってもおらず、こうして一見の客が目通り叶っただけでも光満屋の使った財が透けて見えるほどなのだが――そんなこととはつゆ知らぬ竜胆である。竜胆は男女の情愛や色欲に関して、やや無頓着なところがあった。そうであるので、当然ながら光満屋の節介で引きずり込まれた遊郭に関しても、粗相があってはいけぬと必死である。
「これは、男の方から話しかけるべきなのか――? 一言も話してくれないどころか、目線すら合わないんだが」
竜胆はなんとか鈴蘭と目を合わせようと奮闘してみることにした。頭ごと動かして、目線の先に回り込む。鈴蘭はちらとそれに目を伏せるだけで、一向に目を合わせない。
竜胆は諦めて、小窓の外を見た。
「――いい夜だな」
――鈴蘭、無反応。まずもって今夜は雨であるが、それを良い夜と表すかどうかは人によって別れるところだろう。
「――――。酒を持って来たが、どうだ」
鈴蘭、無反応。竜胆はどれどれと、光満屋に勧められるままに買った酒を見た。
「――ああ、大吟醸だ。たしかに、それなりに値は張ったな」
鈴蘭の肩が少しぴくりと動く。――酒は好きなのか。
竜胆はなんだかおもしろくなってしまって、どうにかこの遊女の凍った美貌を動かせやしないかと手当たり次第に話しかけてみせた。
「アー、今日はいい日だな!」
外はいよいよ大雨の様相である。鈴蘭はそっと笑いをこらえた。
「――今日はお日柄もよく、――うーん」
乾杯の音頭か。しかも言えていない。鈴蘭は思わず笑い声を上げそうになって、思いっきり顔を背けた。
「――。――布団がふっとんだ」
「ふっ」
「それ笑えるか!?」
竜胆はいよいよ顔を真っ赤に染め上げた。あんまりだ。どうして遊郭なんぞへ来て、高級花魁にくだらぬ洒落を笑われねばならんのだ。光満屋、さてはあいつ私のことが嫌いか。そうなのか?
着物の柄より赤くなった竜胆を見て、鈴蘭はいよいよ快活に笑った。
「ふっ、っはは! ――いや悪い、若旦那があんまり馬鹿なことをするもんだから、面白くてな。洒落はまるっきり酒場の親父だ。精進しろ」
「誰が酒場で呑んだくれる親父だ!」
「ん?」
「指をさすな!」
ぎゃんぎゃん。なんだこいつ面白いなと、鈴蘭は知らず思っていた。
「だいたいな、客に目も合わせないってのは商売としてどうなんだ? 惣之助――うちの奉公人がやろうものなら、尻を蹴り飛ばしてやるところだが」
鈴蘭は一瞬きょとんとしたあと、ああと手を打った。そうかこいつ、愉快な無礼者ではなく無知なのか。
「あんた吉原は初めてか? 花魁と客が始めて会う時はな、目線を合わせないのが普通なんだ」
「ああそうか、それは失礼。一見の客には案内が欲しいところだな」
「ここに一見で入ってくるような、金に物言わす客はあんたくらいだってことだよ。それで? ほかに質問は」
「ああ――そうだな。そういやおまえ、なんで男がここにいるんだ」
それはあまりにも自然に、いかにも今の今まで気にもとめなかったというふうなので。鈴蘭は思わず、目をぱちくりとさせた。
「――今更だな」
「仕方ないだろ。まさか遊郭まで来て、男が出てくるとは思わんだろうに」
「ふふ。男、男か。いいぜ、今は見張りも禿たちも下げさせた。そちらさんも訳ありのようなんでな。好きに話してみろ」
「訳あり?」
「ああいや、大したことじゃない。――まさか遊郭まで『女』が来て、あまつさえ『俺』を買うことになるとは思わなくてな」
「――さあ、何のことやら」
竜胆が涼やかな目を鋭くさせる。鈴蘭はそれを真正面から受けた。
「ここは女を買うための部屋なんだ、外で盗み聞きをするような奴はいないぜ」
「――はあ。さすがに見る目が違うのか。どうして気付いた? これでも、今まで疑われたことは無かったんだがな」
竜胆は肩の力を抜いたように、すらすらと話し出す。普段の芯のある声とは違い、柔らかな声音は女のそれだ。
「喉と、肩、後は――ああ、胸は元から無いな、気にするな」
「やかましい!」
「ちなみにこの前結びの帯なら、男の俺でも多少は胸があるように見えるらしいぜ。教えてやろうか?」
「さっきは! ――私を若旦那などと呼んでいたが、遊女は客の素性まで分かるのか」
「まさか。その家紋、かたばみ屋の竜胆だろう? 客がよくお前の所の菓子を持ってくるんだ」
「はあ、毎度あり。天下の鈴蘭太夫に名を覚えていただくとは光栄だ」
竜胆は、なんだかもうどうでもいいな、という気分になってしまって酒瓶を揺らした。散々である。長年隠してきた性はばれ、ばれた相手もまた夜鷹(男娼)ですらなく男花魁。もう何が起きても困るまい。
「ああ、そういえば酒があるんだったな。くれ」
「いけるくちなのか」
「一升瓶を空にしたことならあるな」
「いっ!? ――随分、強いな――」
「客の中には遊女を酔わせて潰したい奴もいるのさ。徳利5つ目でぶっ倒れてたが」
「災難だな。どちらがとは言わんが」
「さあな」
鈴蘭はとくとくと手酌で酒を注ぐと、一口煽った。
「お。これ、美味いな」
「一緒に来た連れに持たされた。私は断ったのに、わざわざ酒を用意した上で連れてこられたんだ」
「へえ? 何だ、祝いの席か何かか?」
「遅めの元服祝い、だそうだ。『竜胆殿もそろそろ女を覚えたほうがいい』とか言っていたが、――あれは私をダシに遊びたかっただけだな」
「今頃はよろしく遊んでることだろうよ。折角だ、お前も飲め」
「ああ」
二人はしばらく、ただ黙って酒を飲んでいた。鈴蘭の一升瓶を空にしたという弁は嘘ではなさそうで、このまま同じように飲んでいては潰されそうだ、と竜胆はひそかに思う。
「なあ、時に若旦那、竜胆殿。噂はよく聞いてるぜ? 当主の座を手に入れるため、一族郎党焼き殺したとか」
「その話か。根も葉もない噂だ、下らん」
「へえ?」
竜胆はく、と酒を煽ると、小窓の外を眺めるように視線を逸らす。ここは大見世の二階。眼下に見えるのは、派手に着飾った女たちだ。
「たまたま火事が起きだけだ。石造りの蔵に居た私だけが生き残り、他はみんな死んだ」
「蔵に? それはまた変わった住処だ」
「私は元々、双子の妹として産まれたんだ。双子というのは不幸を呼ぶ凶兆。どちらかの子供は殺されるのが普通だ。一緒に産まれたのが後継ぎになるはずの兄だから、私は殺されるはずだった。母上と兄上が、蔵に隠して私を育ててくださったんだ」
竜胆という名は、かつて兄のものだった。名前を付けることもできない、産まれてはならなかった娘を哀れんだのか、娘は石蔵に隠れながらもきちんと愛を受けて暮らしていた。商人らしく忌み子を嫌った父からも、その使用人たちからも隠れて、兄は日に幾度も顔を見に来ては簡単な勉強をさせてくれた。母は気弱な人だったから父を出し抜いて石蔵へ来ることは少なかったけれど、いつもたくさんの手料理と菓子を用立ててくれた。
「多分、いい家庭だったと思う。父上には会ったことがないけれど」
「あんたのその格好は、死ぬはずの忌み子を育ててくれた家族――御母堂とご令息への恩返しって訳か」
「さて。どうだかな――案外、兄上に成り代わって、外の景色を見たかっただけかもしれないな」
「ふうん?」
鈴蘭はつまらなさそうな顔をして言った。竜胆の顔がそろそろほのかに赤らんでいて、ああこうして見ると娘だな、とふと思う。
「おまえはどうなんだ」
「俺か?」
「江戸で自由を満喫する私より、余程込み入った事情とお見受けするが」
「込み入っているかは知らんが、どうだろうな。よくある話だろうよ。お鈴――妹の代わりに此処へ売られたんだ」
「妹君の? いや、いい。それで何がどうなったら花魁になるんだ」
「借金を返すために働けと言われたが、俺は体を動かすのがどうも苦手でな。親父殿――楼主の方でも、使えん用心棒にするよりは、客寄せに飼い殺す方がいくらかお好みだったらしい。幸い俺はこのとおり顔がいい、お鈴もあの歳にして大層な美少女だったさ。もとより、花魁にまで育て上げる気で買ったんだろうな」
「随分、達観した物言いをするんだな」
「何だ、同情でもしたか?」
「――いや。ただ――そうか。おまえは、自分で選んだわけではないんだな」
「誰が好き好んで花魁なんて面倒なもんになるか。俺はただ、流されるままに生きてきた。これから先も、きっとそうなるんだろうよ」
「それは――」
「――くだらん話をしたな。遊郭まで来てする話でもない」
竜胆ははっと鈴蘭を見やった。簪や花飾りに隠れた横顔が、どことなく俯いて見える。
(これ以上は――ここにいてはいけないな)
すっと竜胆は立ち上がった。
「今日のところは失礼する。――いや、もう会うことはないかもしれないな」
「遊女と客なんてそんなもんだろう。さ、行った行った」
鈴蘭と竜胆の目線は合わない。竜胆にはなんだかそれが、長年来の友人から拒絶されたかのようにひどく辛いことだと感じられた。
「ん? ああ――.いや、代わりは要らん。今日は知り合いに連れて来られただけなんだ。短くてすまんが、今日はこれで失礼する」
廊下の先で待っていた案内役に先導され、見世をあとにする。華やかな吉原が、霞んで見えるのが嫌だった。
「――かたばみ屋の竜胆、か。もう、会うことはないんだろうな」
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