弐
さて、江戸から少し離れたところ、少し刻の過ぎた頃。
江戸の活気が生い茂る緑のようなものとすれば、こちらは毒を帯びて艶やかに咲く大輪の花である。陽の沈まない今は静かなものだが、夜になれば女たちは華々しく飾り立てて媚びた声で男を誘い、男たちは見栄と下心を大金にのせてばら撒く、そんな場所。――吉原遊廓の一角である。
通常、遊郭にはいくつかの見世(みせ)と呼ばれる建物があり、そこに女たちが属している。中にはどこの見世にも属さず、道端や茶屋で商売をする女もいるものの、主立っては見世に属する女たちが柵の奥から男たちを手招くのが想像するところであろう。見世にはそれぞれに格があり、その中でもここ「桜花楼(おうかろう)」はいわゆる大見世、最高級店とされる見世であった。
そんな桜花楼の奥廊下を、女がひとり、疲れきった様子で歩いていた。
しゃらしゃら揺れる簪と髪飾り。華やかな紅の着物は大柄物で、女の顔立ちはそれにも負けぬほどにくっきりとした美しさがある。大きくくろぐろとした瞳は濡れたように潤み、疲れた様子に目を伏せていても一目見たものがいればたちまち惹かれるほど。結い上げられた髪からはびんづけ油の香りが情を誘い、紅を刷いた頬と唇はまるで大輪の赤椿。抜けるように白い肌はまるで硝子細工のよう。
桜花楼いちの花魁、その名を鈴蘭(すずらん)である。
「――はァ、」
鈴蘭は自室の襖を閉めると、疲れきった様子でだらりと座り込んだ。その唇から漏れる吐息は、ややかすれた低い声音だ。
「――疲れたな」
また、鈴蘭は一人ごちる。その声は華やかな容姿に見合わず、艷やかではあるものの――ざらつきのある、掠れ男に変わりつつある少年の声。
「鈴蘭や」
ふいに襖の外から声がかかった。一瞬こわばった表情を浮かべた鈴蘭だが、ふくよかな男の影とよく知った声に、ふっと吐息一つで元の気だるげな表情に戻る。
「誰かと思えば――あんたか、親父殿」
親父――桜花楼の最高責任者であり、楼に所属する遊女たちを「買い上げた」張本人。遊女たちは誰も彼も、この男の不興を買わぬように神経を研ぎ澄まして頭を垂れる。しかし、鈴蘭は少しばかり事情が違っていた。
「この儂にそんな目を向けるのはおまえくらいだぞ。それに、不用意に口を開くんじゃない。そんな掠れ声で、まったく――おまえが『男だとばれたら』ことだ。この世に二つとない美貌の『娘』だというから、高値を出したというのにな」
「は。楼主様のお話を盗み聞きなんざ、誰もしねえよ。命まで取られそうだ」
鈴蘭は打掛をばさりと落とす。少年らしい素顔を見せた鈴蘭は、つんと形よく彩られた唇を釣り上げた。皮肉げな表情は「美しき花魁」のものではなく――年相応の、齢十四の少年のそれだ。
「良いだろ、たまには喋らせてくれたって。声を失った、吉原一美しい花魁――だったか、俺は? 不本意だが、あんたとくらいはまともに話さないと、口の利き方を忘れそうなんだ。哀れな籠の鳥の話し相手くらい、やっても罰は当たらないんじゃないか」
鈴蘭は五つのころまで、ひもじくも両親と一つ下の妹の揃う家で暮らしていた。売られた理由はなんてことはない、鈴蘭とその妹がひどく美しかったからだ。幼くもすでに美貌の兄妹として村で知られていた子どもたち。金がなく困っていた両親にとって、桜花楼の親父から提示された金額は少なくない。しかしそのとき、かねてより娘を欲していた両親は妹を惜しんだ。そしてまだ性差の少ない兄は身代わりに売り払われ――桜花楼にて「事故で声を失った、哀れながらも美しい少女」として声を出すことを禁じられたのだ。
花魁は最上位の遊女であり、客を取るも取らないも気分次第。中でも鈴蘭は大見世・桜花楼いちの遊女である。客として部屋に呼ばれ、目通りが叶っただけでも僥倖。声を聞いた者など、未だいないと言われるほどの高級花魁。――その品位を保つために、鈴蘭は厳しい折檻にも理不尽にも耐えてここまで上り詰めた。
すべては、生きてゆくために。
「分かっているだろうが、もうじき花魁道中だ――楼の外の連中にも見られることになる。しっかりしてくれよ、おまえの面だけは使えるのだからな」
「分かってる、分かってる。客の相手はする、花魁道中にも立つ、客や俺従き禿(かむろ)の前じゃ喋らない――取り決めは守ってるつもりだぜ」
「フン、口だけは達者なやつだ。ああ、今日はおまえに客が来ている。一見だが大きな相手からの紹介だ。無碍にはするなよ」
「客? ――へぇ。分かったよ、せいぜい『吉原いちの遊女』が相手になってやるさ」
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