江戸の朝は早い。

 町は活気付き、女たちはせっせと朝食を拵え井戸端会議に興じる。威勢のいい行商人の声が往来を満たし、男たちは今日の仕事に向かう。

「やあやあいらっしゃい、いらっしゃい――」

ひときわ大きな店構えのその菓子屋は、名を「かたばみ」という。その店主、竜胆(りんどう)は今日もまた自らが町を練り歩き、馴染みの客や見知らぬ旅の者に声をかけていた。

「おお――今日の江戸はいつにも増して賑やかだ。そこの旦那、江戸じゃあ見ない着物だな。いい柄だ。今日はどちらから? ――知らないな。田舎か? ――そうか。ところで旦那、御嬢さんが退屈そうじゃあないか。旅の途中でそんな顔をしていたんじゃあ、台無しだ。ここはひとつ、御嬢さんに菓子でも買ってやってはどうだ? ――」

 一つに結われた髪と瞳は艶のある濡れ羽色。涼やかな顔立ちは決して精悍ではないが、ここまで店を広げてきた苦労の滲む、齢十五にして商人らしい陰があった。しかしそれを思わせないほどに瞳はきらりと硝子細工のきらめき。薄く淡い桃色の唇を釣り上げるように笑えば、たちまち娘たちがきゃあと頬を赤らめる。

 竜胆は一人の男を見かけると、やあやあこれはと手をあげた。

「光満屋(みつまや)殿!」

「ン、おお、これは竜胆殿ではないか!」

 光満屋と呼ばれた男は笑みを浮かべる。男はやや背の低い竜胆を決して見下さぬように細心の注意を払っていた。男はついこの間、竜胆に大きな借りを作っていたのだ。妻が町医者では分からぬと匙を投げる病にかかったとき、竜胆は店を閉めて名医のもとへ走ったのだった。

「久しいな、あのとき以来か。奥方の調子はどうだ?」

「ああ、本当に――なんと御礼を申し上げてよいやら。妻も床から起きられるようになりましてな、竜胆殿に一言、御礼申し上げたいと常々言っておりますよ」

「はは、前にも言ったろうに、礼には及ばん。薬の一つや二つ、私からの日頃の礼だと思ってくれればいいさ」

竜胆は柳眉を釣り上げて笑った。

「気が済まんと言うなら、奥方と二人揃って元気な顔でも見せに来てくれ」

 光満屋はもう何と言って良いやら分からぬ様子で、困ったように眉を下げる。それに少し考え込んだ様子の竜胆は、しかしぱっと顔をあげて光満屋を見やった。

「そうだ、時間があるならうちで茶でもどうだ? 少し前から奉公に来ている、惣之助(そうのすけ)という奴がいてな。光満屋殿にも紹介しよう」

光満屋はその提案に救われたようにこくこく頷いた。実のところ、この竜胆という小柄な美丈夫には妻も頬を染めるほど。些細な嫉妬心から、竜胆の言うとおり顔を見せにくるつもりには、中々なれずにいたのである。

 かたばみ屋の暖簾をくぐった竜胆は、店の奥へ声をかけた。

「戻ったぞ。惣之助、お客人だ。茶を淹れろ。――馬鹿か、そっちは番茶だ、人に出すときは煎茶を使えと言ってるだろう! ああもう零すな、手元を見ろ、――落ち着け!」

 惣之助とはまた熱意から竜胆に雇われたものの、幾分そそっかしいところのある男であった。ひょろりと背の高い惣之助がついに煎茶の入った筒を盛大に零したので、竜胆はすうと息を吸い込むと、惣之助へ怒号を放つのであった。

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