第11話
お? とうとう返信して来たぞどれどれと読み進める内に腹から脇のあたりにかけて泡の浮いてくる感覚に見舞われて、なるほどキモ過ぎる、病んだ女よりも更に病んだ男とでもいうことか、やっていやがると葉奈は身体を掻いて、それにしても心中だの誰かを好きになるだのあまりにも突拍子なさ過ぎていかれ方がわざとらしいぞとにやついていたが、ふと、まさかこれは白川のことを言っているのだろうかという思いが胸中によぎった。実はこの数日前、メールと電話で何度か葉奈と白川との間にやり取りがあった。去年四月に白川の主催する劇団の公演が中止になった時以来の、約一年ぶりの連絡だった。最初はメールで、この夏に行う公演に都合が合うようであればまた出演しないか、という打診であったが葉奈としてはもう芝居の方はほとんどやる気がなくなっていたのと、自粛中であるということと、夏と言えばちょうど司法書士の試験と重なってしまうというのもあって、パスだな、と即決、白川には、芝居はやる気がなくなったとか自粛中とかいう理由は省いて、その時期には別の予定があるのでと丁重に断りのメールを返したところ、残念だが仕方がない、諦めよう、ところで今から少しだけ電話で話すことはできるか、と返って来たので、できると返信するとすぐに白川は電話をかけてきて、しばらく互いの近況やコロナに対する通り一遍の所感など言い合った後で、「そおかー。ところで出演の方は諦めるけど、チラシとチケットのデザインだけでも頼めないかな? もちろん忙しいようであれば無理はしなくていいんだけれど」
と白川が言った。それくらいであれば勉強の合間に、というかそもそも勉強もやらなければやらなければと思いつつどうしても集中できずにいたのだし、具体的にいくらと金額は分からないが割の良い小遣い稼ぎにはなりそうであるし、おいしい、と思って、
「それなら喜んでやらせて頂きます」
「ありがとう、じゃあ近いうちに一度会って、打ち合わせしたいんだけど」
葉奈としてはてっきりメールか電話で済ましてしまうつもりだったが、言われてみればこういう場合直に会って打ち合わせするのが当たり前なような気もして、今更自粛中だから会うのはちょっと・・・・・・と言うのも気が引けた。直前の会話で「こんなに長引いたのではいつまでもいつまでも自粛自粛と言っていられるわけがない」というような方向性のことを白川が言うのに葉奈も適当に同調していた流れもあって、言い出しにくかったのだ。
それで、
「分かりました」
と声を潜めて答えた。
「ありがとう。ええと、じゃあ来週の水木金の夜の内でどこか都合付けられそうな日はある?」
「ええと・・・・・・、だいたい大丈夫だと思うんですけど、・・・・・・ちょっと正確に確認して、後でメールしても大丈夫ですか?」
「OK.あ、もし良かったらだけどついでにさ、打ち合わせの後、ちょっとどこかで飲まない? どうかな?」
「ああ・・・・・・」
「全然無理しなくていいんだけどさ、久しぶりにどう?」
「ええ、と・・・・・・、いい、ですね。あ、でも確か今、お店でお酒って飲めないんじゃ・・・・・・」
「あーそうだったような気もするなぁ。・・・・・・もし嫌じゃなければ僕の自宅に来てもらってもいいんだけど」
「・・・・・・」
「学君も一緒に」
「はあ。・・・・・・」
「ごめん、無理言ったかな」
「いえいえ、そんな、行きます行きます。学と一緒に、多分一緒に行けると思います」
「よし、それじゃあ決まりだ! いやあ楽しみだなぁ。葉奈ちゃんとはもう一年ぶりだし、学君とは確か――どれくらいかなぁ――あ、ごめん、電話かかってきちゃった、切るね、あとで都合付きそうな日メールしといてね。それじゃ」
「はい、失礼します」
というような会話は全部、下の学にも聞こえていた可能性はあった。もしかすると学は音楽なりゲームなりでヘッドフォン乃至イヤフォンをしていて聞こえていない可能性もあった。が、本来そんなことはどちらでも良いことで、気にするまでもないことの筈なのだ、だからこそ電話できるかと聞かれてできると答えたのだ、学に聞かれてまずい話をするつもりなどなかったのだ。しかし白川と会話を進める間葉奈の頭の中では例の、
・友人知人親族との接触については原則NG、都度相談し合って正当な理由があると認められる場合に限り、時間と場所を限定して許可される。
という約束が黄色の文字で点滅していた。
白川は一応仕事を振って来たのであって、友人知人親族というカテゴリーではないから必ずしもこの項には該当しない気もするが、一緒に飲むとかいう話になってくると必ずしも仕事上のやりとりとも言い切れぬのでありそうであれば、「相談」してから可不可を決めるのがルールの筈である。半分以上は仕事なのでもあるし、相談すればきっと学も否とは言わぬであろうが、だからと言って相談して決めると約束していたものを、流れ上仕方がないとは言え、勝手に了承してしまうことにちょっと後ろめたさがあったから、「分かりました」と言う時、葉奈は声を潜めたのだった。そもそも学がこの会話を聞いているかどうかも曖昧だったし、もし仮に聞いているとした場合に、ちょっと声を潜めたところで声が学に届かないと言えるかというとそれも曖昧で、今思うと何で声を潜めたのか分からない。何故声を潜めたりなどしてしまったのか。
実は葉奈には、白川に好意を寄せられているのではないか、という疑念があった。それを性愛の対象としての好意、多少の下心あるものと見るか、単に人柄やら性格やらを「気に入っている」という意味のみの好意と見るかは措いて、掃いて捨てる程いるであろう出演の希望者を差し置いて主観的にも客観的にもとうてい真摯な態度で芝居に臨んでいるのではない葉奈に話を持って来たり、デザインの仕事を振ってくれたりするのは、単純に葉奈の仕事を、才能を、信頼してということではなさそうなのではあった。これは葉奈が自分のこれまでの仕事や(やる気のあるなしではなく)潜在能力を軽視してそう思っているのではなく、そっちの方の自信は満々なのではあるけれども、ただしそれを白川にこれまでどこかのタイミングで示せたことがあったろうかと考えるとちょっと思い浮かばないのだ。やはり白川が仕事を振ってくるのは個人的な好意、どういう意味の好意かは難しいけれども、少なくとも厚意と言えば嘘臭くなる筈の、かと言って100パーセント下心によるものでもなく、とは言え下心が0というわけでもなさそうな、その間のどこかに位置するようなとにかく好意によるのだろうと葉奈は思っていた。そういう思いがあったから、「自宅に」と白川が言い出した瞬間にはちょっと警戒もしたし困った気もしたが、すぐに白川が「学君も」と言い出すと、ある意味ではほっとしたのでもあって、行きます行きます、学も一緒に、と、ここでもまた学の意思も確認せずについ勝手なことを答えてしまっていた。今回の主題は飽くまで仕事の話であって、学がもし行けない、または行きたくない、と言うのであれば来なくても形としては問題はないのだが、しかし白川の自宅で、となっている以上はどうしても学には一緒に来てもらう必要が生じていたのでもあって、これは対コロナのルール云々ではなく当たり前の筋道として葉奈が勝手に進めていい話でないから葉奈は更に声を潜める結果となった。潜めたところで学が聞いているのであれば聞こえていそうだし、聞いていないならばそもそも全部が聞こえていないので全く潜める意味はないのだが。考えてみれば、白川が「学君も」と言い出した瞬間にすぐ学に声をかけるとか、ちょっと下りていくとかして学に話をつければ良かったのだ。何なら電話を学に替わって、自然な感じで――というか本当に自然なんだから――直接白川と話をさせるというような展開もじゅうぶんあり得た。声を潜めるなんていう如何にも誤解を招きかねない行動を取るべきではなかった。
それに白川とて「学君も一緒に」と言っているのだから、長期的な展望のあるかないかは分からぬが、少なくとも今日明日に葉奈をどうこうという心づもりもあろう筈がなく、――いや待てよ、白川が「学君も一緒に」と言ったのは後出しで、初めは葉奈のみを誘ったのではなかったか、それに対して葉奈が黙り込んだ後に学君もと付け足したのではなかったか、あれはやはりあわよくば葉奈だけを自宅に呼んでどうこうというつもりがあったのではないか、いや、しかし、まさか、・・・・・・というようなことを十分くらい、ロフトで考えていたが、考えていても今更どうなるものでもないので葉奈は梯子を下りて行った。
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