第12話
「ごめん、何か色々勝手に決めたかも」
と、学に話を聞かれていたとしても聞かれていなかったとしても行ける言い方をすると、学は、読んでいた本を閉じて、
「うん、白川さんでしょ。聞こえてた。俺もメールしといた」
と言う。
「そうなの、ちなみになんて?」
「『来週葉奈と伺いまーす! ごちそうさまでーす。大人数で飲むのは嫌なので他の人は呼ばないで下さいね~』ってだけ」
「そうなんだ。なんかさ、話の流れで、相談するタイミングなかったから勝手に話し進めちゃってさ、あたしはほんとはメールとか電話で済むと思って仕事受けたんだけど、そしたら――」
「いいよいいよ、分かってる。どうせ行くんだから楽しく行こう」
というようなことで屈託がなく、葉奈はなんだか一人で右往左往したようで馬鹿らしく、そもそも白川の下心云々というのも自分が勝手に失礼な誤解をしているのかも知れず、白川が自分をどうこうするつもりであるというのは、驕るとも言われぬ内から礼を言ってそれが許される程度には親密な、白川と学との関係性という角度から考えてみてもあり得ないことのように思えて来、ちょっと自粛しすぎて頭おかしくなったかも、ハハ、と内心笑って済ましていた。
――というのがつい数日前のことで、それがところが今になって急に、「心中」がどうのと不穏なメールを学は返して来たわけである。もちろん心の病んだふりで茶番を仕掛けたのは葉奈の方で、返信返信と狂気じみてねだった末の返信なので、俺の方がおかしいんだぞというノリで返してきただけなのではあろう、とは思う。もしも、万一、この文面を、学が白川のことを念頭に置いて当て擦る意味で打ったのだとすれば、それはちょっと、なんというか、本気でヤバい人なのであって、まさか、まさかそんな筈はない、今まで学という人を見てきて、こんなことを本気で思ったり書いたりする人でだけは絶対ない、ということは分かる。そう、おふざけ、これは戯れ、白川さんのことは関係なしにやってるんだ、と葉奈は結論づけた。その上で念のため、さっきの学からのメールをざっと読み返すと、
――にしても――、心中? なんて話がどこから出て来たんだぁぁぁあああ!
「キモ過ぎるんですけどおおおぉぉぉ!???」
と、忌憚がないときの自分であればそう言うであろうと思われる台詞を殊更元気に発しながら、足は慎重に、梯子を下りて行ったのである。
すると学は座椅子に座って、俯いて、自分の携帯を見つめたまま無反応で、葉奈の方を見向こうともしない。無視しているということか? 何で? と思いながら「おい」と軽く左肩を小突いてみたがそれでも反応しないので、「何を見てんの?」
と膝をたたんで隣にしゃがみ、学が見ている携帯の画面を覗いてみれば、それはさっき学が葉奈に送った、心中がどうのというメールの画面だった。そうそうそのメールよ、それがキモいって話、まだふざけているのだろうか? 別にもうふざけるより他にないような生活がずっと続いているのだし好きなだけふざけてくれてもお互い様で全然付き合う気ではあるけれども無視というパターンは葉奈としては普通に不愉快で、いい加減にしろよという気もちょっとして、目線を上げて学の顔を見るとその目に涙が溜まっており、は? 泣いているような表情でもないというか、泣くでも笑うでも、何の表情でもない感じ、弛緩して半眼(はんがん)、半開き、何これ、と思う内にちょうど表面張力が破れて涙が最初左目から垂れて、あぐらに組んだ脚の右脚のかかとだか左脚のふとももだかの辺り、部屋着のえんじ色のジャージズボンに浸みて行く。溢れ落ちる涙がどこに落ちようがどうでも良いのだが何となくその浸みていく様を見ているうちにぽたぽたと次から次、落ちてきて濡れて行く。えぇ? と思う内にもぼたたたたーと十二粒くらい落ちてくる。学どうしたの、ほんとに白川さんのことで誤解してるってことなの、だとしても、泣く?
「え。どうしちゃったの」
と左肩を今度は小突くのではなく揉んでみるとやっと学は一瞬だけ葉奈を見たものの、すぐに目を逸らすとジャージの袖に目をあてて涙を拭ってから、
「ごめん、何でもない」
と言う。
「いや。何でもないわけないでしょう」
「ほんとに、自分でも何なのか分からないんだけど、急に泣いてただけ」
と言った学の言葉は、学にとっては実は掛け値なしの真実だった、何で泣いているのか、そもそも泣いているのかどうか学にも分からなかった。暑いと汗をかくようにぼおっと自分の送信したメールを読み返すでもなく何となく眺める内にただ涙が出て来たのだった、感情はなかった。感情も思考も働かない中でいつの間にかそばに葉奈がいて何か言っていた、というのが本当の所で、葉奈が疑うような白川と葉奈との何やかやなどは、微塵も関係がなかった。 しかし、葉奈は、学の、涙の言い訳、というか言い訳する気もないようなばかげた返答を聞くと、いよいよ先ほどからの疑念がもはや疑念ではなくなって来て、ここ数年来感じたことのないような溝のようなものに直面していた。――確かに白川さんと電話した時に、あたしは声を潜めるような真似はした、しかしあれは、白川さんの方はどうか知らぬが、あたしとしては学との自粛のルールを成り行き上学への相談なしに破りつつあることに対する後ろめたさからのことだった、それを学は勝手に、あたしの中に、白川さんに対する後ろめたい気持ちがあるように捉えて泣いているのだ。確かに声を潜めたのは取りようによっては行儀が悪いことではあるし気分が悪いものかも知れないということは認めるが、だからと言って、あんな一年ぶりの、たった一回の電話のやりとりの中で《声を潜めた》というだけで疑わなければならない程にあたしは信頼されていないというのだろうか? そもそもあの日、あたしが説明しようとするのをいいよいいよ分かってる、と学は遮って来たが、分かってるとは一体何を分かってたというのか、分かってる分かってると大人ぶって許したくせに本当は何も分かっておらず、それどころか完全に陳腐な、しょうもない、稚拙な誤解に陥って、それでとうとう我慢し切れなくなって来て誰かを好きになってもいいよなどと当て擦るようなメールを打って来たのだ、それもはっきりそうとは分からぬようないじましい文面で、そして今こちらが腹を割って話そうと言うのにそれでも学は決して自分から言う気はなくとぼけているのだ、泣いているくせに、あたしが白川さんとコソコソ話をしたというだけで悔しくて泣いているくせに「急に泣いてただけ」だと? いい加減腹を晒せよ。というように考えてみると、もうこれは一度、じっくりと一から十まで話をして誤解を解くよりないように思われ、こんな些細なことで疑われ釈明しなければならないなんてという苛立ちはあるものの、誤解を解くのが目的なのだからと極力冷静に行こうとは努め、「急に泣いてた、って、それはないよ。ほんとのこと言ってよ。白川さんでしょ?」
「は?」
と学が真に何のことか分からずぽかんとしたのを、葉奈はこいつまだとぼける気でいると捉え、
「ねえもういいって。一回ちゃんと話しようって言ってるんだからもうとぼけないで本音で行こうって」
と、早くも冷静さを失いつつある葉奈の気色を感じ取った学が、
「OK.OK.話そうか、うん」
と葉奈の方に膝を向けてたばこに火を付ける。そのいかにも《訳の分からないことを言い出した女に冷静に対応しよう》というような態度に、いや、今はさ、悪いけど訳の分からないのは、そっちなのよといよいよ葉奈は苛立って来て、
「話そうか、じゃなくてさ。そっちでしょ。話さなきゃ行けないことっていうか、聞きたいことがあるのは? 蟠ってるのはそっちでしょ」
「いや、ごめん、俺は何も、蟠ってないよ、ほんとに」
「じゃ何で泣いてたのよ」
「うん、それはそう、不思議だよね、不思議に見えない方がおかしいと思うよ」
「ふざけてるの」
「ふざけてない」
「白川さんのことでしょ? あのね、それ完全に学誤解してるから」
「ちょっと待って、白川さんが何? 何かあった? 仕事もらったんじゃないの? 来週飲みに行くんだよね俺も一緒に?」
「うわ、ちょっともう勘弁して欲しいんだけど」
「何が?」
「だからさ、あたしが白川さんと電話してる時に、行く行かないみたいな話になった時にコソコソしちゃったじゃん、それを勘違いしてるんだよね、それであんなメール打ってきたんだよね、それで泣いてたんだよね? それ誤解だってことを言いたいの、真摯に、あたしは全部話そうとしてるの、だから学ももう本音でいいから。まず認めて、泣いてたのはそれなんでしょ?」
「ごめん、違うわ。まずさ、メールは、頭おかしくなった感じでそっちが来たからこっちもそれで返したんだけど? で泣いてたのは難しいけど超簡単に言えば自粛しすぎてのストレスかな、多分、簡単に言えないことを簡単に言うとすればね? ていうかちょっと待ってコソコソしてたの? 俺はまずそれを知らなかったんだけど。どういうこと? 白川さんと何があったの?」
「だから何もなかったって言おうとしてるんじゃん」
「ん? コソコソしてたんでしょ? 何をコソコソしたの?」
とこのあたりで葉奈は、もしかすると早とちりしたのは自分で、学は本当に、白川のことなど全く意に介していなかったのだろうかと思えて来たのと同時に、いつの間にか当初の誤解を解くという目的から真反対の方向へ、つまり、もともと存在もしなかった誤解とやらを自ら創出する方向へ会話が流れていると感じてうろたえていた。時間が欲しい。ちょっと考えを、ここからの方針と展開をまとめる時間が欲しいと思った。が、ここで変な間を開けると余計にこじれてしまうと焦り、それでも腹を割る、取り繕わずに全部言う、という最初の方針を思い出し、
「今気付いたんだけど。あたしが間違ってたかも知れない。学の言うとおりだったかも知れない」
「俺の言うとおりって、俺が何言った?」
「え、だから、泣いてたのは自粛のせいとか、コソコソはなかったとか」
「コソコソはなかったって俺言ってないよ? 知らなかったって言ったんだよ? コソコソしてたって葉奈が言ったんだよ? それを知らなかったって俺は言ったんだよ? そしたら事実はコソコソはしてたってことだよね?」
「違うんだって。 だからコソコソしたのは自粛ルールを勝手に破る約束をしてしまうことに対してコソコソしちゃったんだよって言いたかった」
学はしばらくの間何か考える風だったがやがて眉間の皺をほころいで、
「ああ、そう。まあ、分からなくもないけど」
「そう、そういうことでしたので。今日はこれにて」
と葉奈が半分は冗談のつもりもあり過度にそそくさとロフトに戻りかけるのを学も笑いながら呼び止め、
「ちょっと待ってアハハ、急に帰るのおかしいじゃん」
ああ、良かった、笑っている、学は分かってくれたようだ、一瞬こじれそうにはなったけど、そもそも学はいつだって物分かりだけはいいからネ、
「ごめんね。ハハ。何かあたし、色々勘違いしてたわ。自粛やばしだね。ほんとに頭おかしいじゃんね。っていうかそうすると学が泣いてたのも相当やばいけどね」
と笑って言いながら葉奈は得体の知れない、新たなむなしさのようなものを感じていた。
「ほんとに。二人ともおかしくなってるわー」
とまるで一段落ついたというように学がたばこに立て続けに火を付ける。
「・・・・・・そうね」
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