茶番である。

　と学には分かっていた。

　犬なんて本気で殺すわけがないし、天井を突き破るつもりもない、脚が細っただの腹が太った顔が太っただのも嘘で事実は全部太っていた。とはいえ百貫デブになったわけではなく、垂れこもる前に比べて一回りぽちゃっとしたに過ぎないが少なくとも脚が萎え細ってというような話は「全部太ってるだろう」と言わせたいがための特有の挑発であり、返信がないことを責めるのも本気ではなく、メンタルに支障が出始めているよヤバいよという女を演じて遊んでいるのだ。学をおちょくって根比べをしかけているのだ。今更返信などは興醒めもいい所。しかしそれでは返信しないことが興醒めでないかと言えばそれはそれで興醒めなのではあって、もっと言えばそもそも醒める程の興なんてものがない。いやいやこの長期の自粛生活の中にほんの少しでも面白いことをと思って葉奈がやっていることを醒める程の興もないと切り捨てるのは学とて忍びなくも薄情にも思え、そう言うのであれば学の方で興の乗るような気の利いた返信をすぱんとすれば良いのにそれができないのは学の方の力不足で葉奈を責めるべきではないとも思う。それでちょっと何かいい返信はないものかと考えてはみたがやっぱり思い浮かばな

い。実際、学もそろそろ精神が鈍磨していた。身体の深いところが疲れていた。物事に筋道つけて考えられなくなっている感じ。まぶたに鉛の紐が混入されていて、思うように開かない、開けようとも思えないで鉛の重みに任せて精気のない目をし続けて抗えないのではなく抗う気が起きない感じ。そもそもが無謀な戦いだった。豪邸ならまだしも引きこもるには狭すぎるし犬の鳴きすぎる部屋だった。いびきの聞こえる部屋だった、よく耐えた、ここまでよくやったものだ、とてもかなわない。かないません。どうしようもない。どうしたいもない。

２０２１年４月３０日

『お願い！　なんか無視されてる気分になって来てる！』

　これは何かしら返信しなければ収まらないなと思い学は送信画面を開いた。既に５００通以上スルーしたのである。もちろんそれ自体がそういうじゃれあいなのだという共通認識の下でのことではあったが、ここ数日は葉奈の方でそろそろ本当に苛立ち始めていることをうかがわせる文面が続いていた。それを学の方でも感じ取りながら返信はしなかった。

　簡単に鬱などと言って済ましてしまうのもどうかと思うが確かにその傾向にはあるのだろう、俺はこんなふぬけになっているが、葉奈は頑張って面白メールを送ってくれてるわけだよね、それを興がないなんてね。違うんだ。興がないわけがないのだ、あるのに俺が感じられていないだけなんだ、葉奈は才能の塊、才能のジャングル、受け取れてない俺の問題、いつも面白いメールをありがとうね、好きだよ、という主旨の文面を学はいったん入力してみた。が、これも

、コロナはもう終わらない、それでいいかな、いいも悪いも終わらないんだって、どんなにゴシゴシ手を洗ってもどんなに静かに家にいてもどんなに激しくアルコールを吹き付けても終わらない。どんなにかたくなに会食を断ってもどんなに執拗に熱を計っても終わらない。もういいかなって黙れよだからお前のいいも悪いも終わらないって言ってんだろ終わらせないって言ってんだろ、オリンピックだろ、ガンで死ぬよりいいんじゃないか、事故で死ぬよりいいんじゃないか、死ぬかね、死ぬかもね、心臓麻痺で明日死ぬかもね、脳溢血で明後日死ぬかもね、南海トラフがペキンと爆裂して来月死ぬかもね、こんな陳腐な木造アパートはぺしゃんこに潰れるのかもね、そうなればこの殴りつけて穿った壁の穴やら水浸しにしたせいで腐って底の抜けたまま放置している流し台の下のあのよく分からない不吉なスペースその他、何にせよ自然劣化を言い張るつもりではあるが通用するのか分からない、通用するとしてもしないとしても不動産屋とのそのやり取り自体が想像するだに面倒だ、そういう面倒な事務的なことは葉奈は絶対やらないしやれないし俺が担当することにはなるのだろうけど、もし南海トラフが根こそぎぺしゃんこにしてくれたら俺らのせいじゃないっすよね？　って言うまでも無く原状回復の責任なくなるの爽快だよね、まず生き残ったらの話だけども。単にストレス溜まりすぎて寿命縮んだりっていうか絶対縮んだよね。死にたくないけどね、全部かいくぐって９０歳くらいまでは生きたいね、いやぁ本当はそれもどうかなぁ、俺はもういつ死んでもいいんだよなぁ、人生の目標っていうか、したかったことは完全に成し遂げたからいつ死んだっていいんだよね、今は成し遂げたものを死ぬまでの間ぼんやり眺めて悦に入ってるだけの時間帯、エクストラゾーン。後は死ぬだけどうせ死ぬだけいい人生だった、自分の出生の過程と義務教育を終えるまでの暮らしを考えればこの人生はもう既に貰いすぎた人生だ、僥倖、身に余るんだ既に、俺はね、もう他には何も要らないっていうくらい全てを手にしていて、後はもうこれを手にしたまま死ねるかどうかって話になってきてるんだよね、むしろ死ぬまでの間が長くなればなるほどこれを失ってしまう可能性が高まるから理想は今夜にでも死ぬことなんだろうけど、自殺したら葉奈は悲しいだろうなぁ、そりゃあねぇ、何で？　ってなるんだろうなぁ、そうなると死んだ瞬間に俺は全て失って死んでいくわけで、死後に意識が全くないのだとすれば俺にとっては問題ないけど死後に意識がないのかあるのか分からないし分かっていたとしても死後に全て失うんだと分かっていながら自殺したらそれは結局手に入れたものを全部ぶち壊した瞬間に死んでいくことと分かって葉奈が悲しむのを知って死んでいくのだから破綻、手に入れなかったのと同じこと、いや最初から手に入れなかった場合よりもっとへこむ、へこんで死んでいくことになる、それは絶対に嫌だから自殺は絶対にしない、自然に死ななければならない、２０２１年４月３０日

『おぃっ！　たまには返信しろって言ってるんだょ！』

２０２１年４月３０日

『心中、ということの意味が今少し分かるけど、俺と葉奈にはとうてい当てはまらない、信じているから。万一俺が死ぬ理由があったとして死んで後、葉奈は俺を裏切らないから生きてくれと切に感じられる。生きていて欲しい。生きて夢、叶えて欲しい。生きている内は裏切るかも知れないと思うから心中するんだね、裏切れないようにするために二人して死んじゃうんだろうね、そんな程度の絆しかないから相手が忘れてしまうことを恐れてもろともに死んで行くんだね、生きている内は忘れてしまうから、忘れられてしまうことが悔しいので相手を殺すんだね、そして自分が忘れてしまうことが悔しいから自分を殺すんだね。でも葉奈は忘れてもいいよ。好きになっていい、いい人でも悪い人でもいいよ、もし守護霊になれたらその人ごと守って上げよう。逆に誰のことも好きにならなくてもいいよ、葉奈は葉奈の人生を好きに謳歌して欲しいと今切に々々感じられる。謳歌なんてしなくたっていい。生きていてくれるだけで、違う、くれるじゃない、生きてるだけでいい、違う、死んでくれても、違う、くれてもじゃない、死んでもいい、葉奈がどんな風に生きてもどんな風に死んでも葉奈の全部を応援する、応えなくていい、聞こえなくていい、見てる、思ってる、だから心中なんて俺らにはあり得ないよね。でもそういう全部を踏まえた上で、心中ということが少しだけ、今分かるんだよね。』