第3章:“救世主S”の正体は、ただの会社員だった
第24話:陽のささやかな変化と、渋谷の「清掃」
朝はアラームに叩き起こされ、ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られ、職場では上司の無茶振りと終わりの見えない書類仕事に追われる。
――そんな日々を、彼はもう何年も繰り返してきた。
だが最近、ほんのわずかではあるが、確かに何かが変わっていた。
(ふぅ、今日も一日、よく働いた……)
残業を終えて、夜のオフィス街を駅へと向かう。
以前なら、疲れ果てて思考も止まりかけていたこの時間帯。
けれど今の彼は、不思議と足取りが軽かった。
その理由は、自分でもよく分かっていなかった。
けれど、おそらく――あの「異界めいた路地」での散歩。
そして、そこで拾える「綺麗な石ころ」、つまり魔石のおかげだろう。
あれから数週間。
陽は、仕事帰りにあの古びた木製の扉を見つけるたび、まるで秘密基地に向かう少年のように、こっそりと中へ足を踏み入れるようになっていた。
もちろん、
(まあ、ちょっとくらいなら大丈夫だろ。健康のためだし……。最近じゃ、あの場所、なんだか落ち着くんだよな。あんなに怖かったのに……慣れって、怖いな)
陽は、自分に都合の良い言い訳を並べ、内心で軽くツッコミを入れながら、いつもの角を曲がる。
すると、予想通り――古びた木製の扉が、街の景色に溶け込むようにして、ひっそりと佇んでいた。
人目がないことを確認すると、彼は慣れた手つきで扉に手をかけ、音を立てないようにして開ける。
そして、一歩、また一歩と中へ足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、陽の肌を撫でる。
外気とはまるで異なる、どこか清浄で、静謐な気配を帯びた空気だ。
彼の肺は、それを深く吸い込み、少しだけ気持ちを落ち着かせる。
扉の先――そこには、相変わらず発光する苔が壁一面に生えていた。
その微かな光が、薄暗い通路をぼんやりと照らしている。
以前なら、その光景に嫌な汗をかいていただろう。
不気味な気配、息苦しさ、得体の知れない存在感……。
けれど、今の陽は、そうした不安をほとんど感じていなかった。
(お、やっぱり。なんか、前よりも道が綺麗になってる気がする)
彼は鼻歌まじりに、ゆったりと歩を進める。
以前は、壁に粘液のようなものがへばりついていたり、不快な臭いが鼻をついたりしていた。
だが今、それらは嘘のように姿を消していた。
あの異様だった空間が、まるで手入れされた庭のように整ってきている。
誰かが丁寧に掃除でもしたのかと錯覚するほどだった。
「うん、うん。これなら散歩コースとしても上々だな。最近は変な物も見かけないし、良かった良かった」
陽は、満足そうに頷く。
この場所に最初に足を踏み入れたときの、あの得体の知れない恐怖感は、今やすっかり影を潜めていた。
通路の奥からは風のような音が聞こえるが、それも今の彼には心地よいBGMに思える。
街の喧騒とは無縁の、静けさに包まれた異界の路地。
彼にとって、ここはもはや「癒し」の場所になっていた。
もちろん、そんな彼の気楽な散歩の裏で、路地の空気が確かに変わりつつあることを、彼自身はまったく知らない。
陽は満足げに深く頷いた。
この異界めいた路地を「散歩コース」として楽しんでいるのは、きっと自分だけだろう――そんな優越感すら湧いてくる。
だがもちろん、彼が歩くたびに、この空間で何が起きているかなど、知る由もない。
たとえば。
この路地には、かつて小規模なゲートの不安定化現象や、初期段階の魔物の卵のようなものが、わずかに出現していた。
だが、それらはすべて、彼が通り過ぎるたびに、なぜか鎮静化され、あるいは自然に消滅していた。
うっかり蹴飛ばした小石が、実は暴走しかけた魔力溜まりを安定化させる役目を果たしていた
――などという事実を、彼は夢にも思っていない。
ましてや、鼻歌を口ずさむことで、微弱な魔物の精神が安定し、暴走を防ぐ“効果”があるなど、気づくはずもなかった。
彼にとってはただの気まぐれであり、気晴らしだ。
だが、この空間にとっては
――いや、世界にとっては、その“気まぐれ”が救いとなっていた。
陽が、以前よりも明らかに通りやすくなった路地を軽快に歩いていると、その足元のコンクリートのひび割れが、ふっと淡い光を帯びて揺らめいた。
ほんの一瞬、まるで何かが癒されたかのように。
しかし、彼はそれに気づくこともなく、いつも通りの調子で通り過ぎていく。
近くのゴミ箱の陰に潜んでいた一匹の野良猫が、陽の姿を認めた瞬間、ピクリと反応して身を翻し、音もなく路地の奥へと姿を消した。
「……この路地、なんか落ち着くんだよな。猫も俺のこと避けるし、静かでいい」
彼はそんなことを呟きながら、今日の“コレクション”を探し始めた。
地面には、相変わらずキラキラと光る小石がいくつか転がっている。
見た目はただの綺麗な石ころだが、その正体は
――間違いなく“魔石”。
それも、品質は低級ながら、れっきとした異界の産物だった。
「お、今日もあったあった。今日のラッキーアイテムだな」
陽はしゃがみこみ、足元の石を一つ一つ拾い上げては、丁寧にポケットへ入れていく。
見た目はキラキラと輝く綺麗な石ころ。
だが、それは紛れもなく“魔石”だった。
たとえ低級品とはいえ、エネルギーを秘めた貴重な異界の産物だ。
そのうちの一つを手に取った瞬間、陽はふと首を傾げた。
ポケットの中で、その石だけが微かに温かく感じられたのだ。
耳を澄ますと、どこからかキーンという金属の共鳴音のようなものが聞こえた気もする。
(ん? なんか気のせいか……? あったかいような、変な音もしたような……。まあ、いっか。これもアトラクションの演出みたいなものだろ)
彼は考えるのをやめた。
深く考えず、受け流してしまう。それが彼の処世術だった。
当然ながら、彼が今ポケットに入れたその「石ころ」が、周囲の微弱なエネルギーに反応して徐々に活性化し始めていることなど、知る由もない。
そのとき、スマートフォンの画面がふっと光った。
ニュースの通知だった。
「へえ、『海外で未知の鉱石発見? 驚異のエネルギー効率で○○ドル!』か……。世の中には、いろんな石があるんだなあ」
画面をチラリと見ただけで、陽は興味なさそうに肩をすくめると、再び“石ころ探し”に没頭する。
ポケットに放り込んだ石が、そのニュースで報じられた「未知の鉱石」と極めて近い性質を持つ存在であることなど、彼は夢にも思っていない。
◇ ◇ ◇
その頃。
画面には、渋谷地区で観測された複数の微弱なゲート反応が表示されている。
だが、その反応はここ数週間、原因不明のまま次々と「沈静化」していた。
「……また沈静化反応。これで今週に入って三件目……。自然消滅にしては、タイミングが良すぎるような気がするのだけれど……」
英玲奈は、組んだ腕の下でため息をつく。
報告書には「原因不明、継続監視」としか書けなかった。
しかし、頭の片隅に浮かぶのは――あの男の顔だ。
どこまでもマイペースで、無自覚で、だがどこか底知れない存在。
椎名陽。
(まさか……彼がこの現象に関わっている……? でも、どうやって……? 彼には、そんな能力があるとは到底思えないけれど……)
分析官としての直感が、“ありえない可能性”を囁く。
英玲奈はそれを必死に否定しようとするが、胸の奥には小さな疑念の種が、確かに芽生えていた。
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