第30話:陽の「困惑」と、世間の熱狂
ここ数日、椎名陽は、ひそかに困っていた。
というのも、彼が「お気に入りの散歩コース」として愛用していた渋谷の裏路地――通称「異界めいた路地」が、立て続けに「工事中」や「関係者以外立ち入り禁止」の看板と共に、無機質なバリケードで封鎖されてしまっていたのだ。
(あれ……? ここも通れないのか……。こっちの路地もダメ……。うーん、どうなってるんだろ、最近。渋谷の裏路地、一斉清掃でも始まったのかな?)
スマートフォン片手に首を傾げながら、陽は次々と通行止めになっている路地を確認する。
彼にとって、あの薄暗くてちょっと不気味、でもなぜか心が落ち着くあの空間は、社畜として疲れ切った心身を癒やす大切な“オアシス”だった。
(おかげで、最近、綺麗な石ころ拾いの成果も減ってきたし、何より、あの静かな癒しの時間が減って、ちょっとつらいんだよな……)
散歩ができないというのは、彼にとって運動不足以上の問題だった。
それは日々のストレスから距離を置ける、数少ないリセットタイムでもあったのだ。
もちろん、彼がぼやきながら封鎖された路地を眺めているその背後では――
氷川英玲奈率いる『危機管理機構』の調査チームが、陽の“散歩”によって偶然浄化・沈静化されたゲート跡地のデータ回収と、再活性化防止のための封印処理を、極秘裏に進めていた。
『危機管理機構』にとって、椎名陽の無自覚な“浄化能力”は、非常に貴重であると同時に、危うい存在だった。
彼が意図せずゲートに干渉するたびに、予期せぬ結果が発生し得る――それを制御できないまま放置するわけにはいかない。
結果、『危機管理機構』は陽が頻繁に出入りするゲートポイントを特定し、彼のいない隙を見計らって速やかに処理を施すという、まるで“モグラ叩き”のような対応に追われていたのである。
◇ ◇ ◇
一方その頃、世間ではいまだ「“S”様」フィーバーが続いていた。
佐藤健太――通称「K」が投稿した動画、そしてそれを元に編集された数々のMAD映像。
ネット上では再生数がうなぎ登りとなり、まとめサイトやSNSでは連日のように「“S”様」にまつわる新たな目撃談や憶測が飛び交っていた。
その多くは、デマか、願望か、あるいは愉快犯による捏造だ。
しかし人々は、あたかもそれらが本物であるかのように語り、信じ、拡散した。
さらには、「“S”様が歩いたとされるルートを辿ると、幸運が訪れる」という奇妙な噂まで流れ始めた。
一部の熱狂的なファン(?)の間では、陽が過去に頻繁に歩いていた路地周辺を“聖地”と呼び、巡礼に訪れる者まで現れるようになっていた。
すでに封鎖されているにも関わらず、その路地の前には、誰が置いたのか分からない色とりどりの小石が丁寧に並べられる。
近所の主婦が「“S”様が通った道だから」と信じて、念入りに塩を撒いて清めている姿が目撃されたという報告まである。
もはや、“S”様は一個人を超えた、半ば神格化された都市伝説と化しつつあった。
日常に潜む奇跡の象徴として、何かを救ってくれるかもしれない“存在”として、人々は勝手に物語を膨らませていく。
それは、どこか滑稽で――しかし、同時に不気味でもある。
理性ではあり得ないとわかっていても、疲れた心は“信じたい何か”を求める。
そして、たまたまそこにいた男が、“救世主”に仕立て上げられていく。
◇ ◇ ◇
「うわ、なんか大変なことになってんな、渋谷。若い子は、こういうの好きだよなあ」
昼休み。
会社の休憩室でコーヒーを飲みながら、椎名陽はワイドショーのテレビ画面を眺めていた。
番組の特集は「謎の都市伝説“S”様とは!? 専門家と徹底討論!」と銘打たれている。
そして、どこかで見たような映像が延々と流れている。
そう、それは佐藤健太(K)が投稿した、例のモザイク付きの動画。
――つまり、本人である陽が無自覚に映り込んでいたあの映像だった。
何度も繰り返される後ろ姿。スーツの裾。肩のライン。
歩き方――
誰が見ても「それ、お前だろ!」とツッコミを入れたくなるレベル。
だが、陽はまったく気づいていない。
「この“S”って人、俺と同じサラリーマンっぽいけど、どんな仕事してるんだろうな。副業でヒーローでもやってるのかな。大変そうだ……」
隣でスマホをいじっていた同僚が一瞬不審そうな目を向けた。
だが、陽は気にする様子もなく、のんきにコーヒーを啜った。
(それにしても、この“S”様って人、なんか俺と名前のイニシャルが同じなんだよな……。まあ、偶然だろうけど。世の中には、Sがつく名前の人なんて、いっぱいいるしな)
完全に他人事。
自分の存在がここまで騒がれているとは思いもよらず、テレビ越しに“S様”を見て「大変だな、あの人」などと他人の心配までしている始末である。
だが、そんな陽の背後では、自分が“聖地”として崇められている路地に入れず困っているという、なんとも皮肉な現実が進行していた。
あれほど癒しだった場所が封鎖され、散歩できないという事態に対して、陽は今日もただひとつの悩みを抱いていた。
「なんか最近、散歩する場所が減ってきて運動不足なんだよなー。新しいコース、早く見つけないと」
そう呟いて、椎名陽はコーヒーのカップをくるりと回した。
彼の思考は至って平和。
この街で何が起こっているのか、自分が何を巻き起こしているのか、まるで気づいていない。
癒しの散歩コースが封鎖されてしまったことに対する軽い不満。
魔石の回収量が減ったことに対する少しの残念さ。
“異界”や“浄化”といった単語は、彼の語彙にはまだ存在しない。
そして、そんな陽のごく普通の日常の影で、確実に状況は動き始めていた。
高遠冴子――フリージャーナリストにして、真実の探求者。
彼女の元には、徐々にではあるが、椎名陽という男に関する詳細な個人情報が集まりつつあった。
勤務先。通勤ルート。過去の居住履歴。
さらに、“ある事件”の周辺に彼の名前が浮上している記録。
高遠の目は、獲物を定めた狩人のように鋭く光っていた。
直感ではなく、論理と証拠が、彼女に一つの結論を導き出そうとしていた。
「椎名陽……間違いない。彼が“S”だ」
だが、その結論にたどり着いた瞬間、高遠の中に新たな疑問が生まれる。
「だが、なぜ彼はこれほどの力を持ちながら、あんなにも『普通』を装っているんだ……? それとも、彼自身も、まだ気づいていないとでもいうのか……?」
そう、彼女はまだ知らない。
装っているのではなく、心から“自分が普通”だと信じ込んでいることを。
陽がどこまでも無自覚で、どこまでも天然であることを。
(……この熱狂が、彼の身に危険を及ぼす前に――真実を明らかにしなければ。彼を守るためにも)
高遠の指先が、取材ノートの端に新たなページをめくる。
そこに刻まれるのは、陽のこれまでの軌跡と、これからの“監視計画”だった。
その一方で――。
陽は相変わらず「静かで落ち着ける、新しい路地はどこにあるだろうか」と、地図アプリとにらめっこしていた。
世界の裏側では追跡と警戒が強まる中で、彼の平和な一日は、今日もまたのんきに続いていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます