第29話:高遠の追跡と、核心への接近
フリージャーナリストの高遠冴子は、ここ数日、渋谷の裏路地に張り付いていた。
彼女の狙いはただ一つ。
ネット上で「“S”様」と呼ばれ、都市伝説のように語られる謎のサラリーマン――椎名陽の正体を突き止めること。
発端は、健太(K)がアップロードした、手ブレだらけの不鮮明な動画だった。
加えて、SNSに散見される真偽不明の目撃談の数々。
それらを丹念に洗い出し、繋ぎ合わせるうちに、高遠はついに――陽が頻繁に出入りする「異界めいた路地」の一つを特定したのだ。
(……間違いないわ。この路地の周辺で、例の“小規模インシデントの自然収束”が多発している。そして、あの動画の男も、確かにここから出てきている……。ここが、謎を解く鍵のはず)
高遠は、路地の入り口が見渡せるカフェの窓際席に腰を据え、コーヒーを啜りながら、辛抱強く現場を張り込んでいた。
記者としての鋭い直感が、この先に世紀のスクープが眠っていると告げていた。
数時間後――ついに、その時は訪れた。
見慣れたスーツ姿の男が、周囲を気にする様子もなく、例の路地へと足を踏み入れていく。
(……来たわね)
椎名陽だ。
高遠はすぐさまカメラを準備し、彼の後を追って路地へと足を踏み入れる。
――一歩、足を入れた瞬間だった。
空気が変わった。ひんやりとして、どこか淀んだような、鼻につく不快な臭気が鼻腔を刺激する。
壁や地面には、陽の浄化によって大半は失せていたものの、まだ微かに異様な粘液の痕跡や、奇妙な植物の残骸のようなものが残っていた。
(この場所……普通の裏路地じゃない。なにか、得体の知れないものが蠢いている……)
背筋に悪寒が走る。それでも、高遠は慎重な足取りで陽の背を追い続ける。
だが陽は、まったく高遠の気配に気づいていない。
スマートフォンを眺めながら、鼻歌まじりでのんびりと歩くその姿は、まるでいつもの日常の延長のようだった。
その“異常な日常”に、逆に高遠の警戒心は強まる。
(彼は、この異常な空間に、何の違和感も覚えていないというの……? それとも、彼自身が、この異常の一部……?)
すると、前方を歩いていた陽が、ふと足を止めた。
彼の視線の先には、壁から這い出すように伸びてくる、毒々しい紫色の蔦のようなものがあった。
まるで生きているかのように蠢きながら、陽へと忍び寄る。
それは、植物に擬態したモンスターの一種――捕食性の異界植物だった。
(まずいわ……!)
高遠が思わず声を上げそうになった、その瞬間。
陽は、その異形の存在にまったく気づくこともなく、スマートフォンから顔を上げる。
「……うわ、なんか顔に引っかかった……」
陽は、目の前に伸びてきた蔦を、まるで邪魔な蜘蛛の巣でも払うかのように、何の躊躇もなく手で振り払った。
ごく自然な、無意識の反射。
しかし、次の瞬間だった。
陽の手に触れた蔦モンスターは、まるでその一瞬で生命力を吸い取られたかのように、紫色から茶色に変色し――
ボロボロと崩れ落ち、やがて完全に消滅してしまったのだ。
「うーん、この辺、なんか変な匂いするし、足元も悪いな。早く抜けよっと」
何事もなかったかのように、陽は鼻歌を再開し、その場を離れていく。
高遠は、ただその場に立ち尽くしていた。
衝撃で思わず、カメラのシャッターを切ることすら忘れていた。
(……彼が、触れただけで……? あの異形の植物が……枯れた……?)
背中を冷たい汗が伝うのを感じながら、高遠は、今しがた自分が見た光景を脳内で何度も反芻する。
あれは決して見間違いではない。幻覚でもない。
まるで彼自身が――強力な“浄化作用”をその身に宿しているかのようだった。
路地に設置された古びた街灯の一つが、陽が近づく前まではチカチカと不安定に点滅していた。
しかし、陽がその下を通り過ぎた時――なぜか光が安定した。
先ほどまで感じていた淀んだ空気も、どこか和らいでいるような気さえする。
(間違いないわ……。彼が、“S”……。そして、ただそこにいるだけで、この異常な空間を“浄化”している……)
高遠の胸には、興奮と恐怖がない交ぜになった、何とも形容しがたい感情が渦巻いていた。
高遠は震える手でメモを取りながら、改めて陽の背中を見つめた。
あの一連の現象は、偶然などではない――そう確信するしかなかった。
彼が歩くと、空気が変わる。
光が安定し、異物が消え、路地が“静まる”。
そこにあるのは、まるで意図的な力の介在――それも、並の異能では到底及ばない。
何か根源的な“調和”をもたらす作用だ。
(……彼が持っているのは、単なる異能なんかじゃない。もっと本質的な、都市そのものに影響を与えるような“力”よ……)
そう思った時、ふとある記憶がよみがえった。
数年前、高遠がまだ大手メディアに所属していた頃。
極秘裏に入手したとあるリストがあった。
――『特異災害誘引体質者』
災害や異常現象を引き寄せ、あるいは逆に消し去る性質を持つ“個体”に関する、政府内部の極秘資料。
だがその存在を暴こうとした彼女は、会社と衝突し、結局は退職に追い込まれた。
闇に葬られたそのリストに、確かに記されていたのだ。
いくつかの符号、そして“ある一件”の生き残りとして。
(椎名陽……。まさかとは思っていたけど……彼が、あのリストに記されていた対象……?)
過去と現在が、一本の線で結ばれたような感覚に、背筋が冷たくなる。
しかも今、目の前にいるその男は、何も知らぬまま、都市の異常を“治めて”歩いている。
彼の無自覚な行動が、この街のバランスを保ち、人知れず“異常”を食い止めていたとしたら――
それは、特ダネでは済まされない“何か”だ。
この現象をどう報じるべきか、報じていいものなのか。
ジャーナリストとしての興奮と、人としての直感的な恐怖が、彼女の中でせめぎ合っていた。
高遠は、異様なまでに澄んだ空気の中で、しばし言葉を失っていた。
彼女の中で、点と点だった情報が次々と線となり、そして一つの恐るべき仮説へと結びついていく。
その中心にいるのは――椎名陽。
何の力も持たないように見える、ただのサラリーマン風の男。
だが、彼が歩くだけで、世界が“修復”されていく。
その現象は、過去に彼女が追い続けた“あのリスト”に記された存在――『特異災害誘引体質者』の中でも、特に規格外とされていた例に、あまりにも酷似していた。
彼はまだ、何も知らない。
自分の持つ力も、それによって生まれる影響も、まるで無関心なままに。
高遠は、震える指先でメモを取り続けながら、あらゆる可能性を考えていた。
陽を守るべきか、暴くべきか。
スクープとして出すには、あまりにも不確かで、あまりにも大きすぎる。
そのとき――。
「お、これは……今日の中でも一番光ってるな。もしかして運気アップの予感? なんてな」
陽が足元で見つけた、ひときわ輝く“石ころ”を拾い上げた。
何のためらいもなく、それを満足げにポケットへしまい込む。
その石が、後に『危機管理機構』によって「特級魔石」と鑑定される代物であることを、陽はもちろん、今の高遠ですら知る由もない。
あらゆる異常を“ただの散歩”の延長で片付ける男。
どこまでも無邪気で、どこまでも規格外な存在。
高遠は、思わず小さく笑ってしまいそうになるのを堪えながら、シャッターを一枚切った。
それは、単なる記録でもあり――未来の何かを予感させる、一枚の“証拠”でもあった。
(この人の正体に、世界が気づくときが来たら――そのとき、何が起こるのかしらね)
陽の背中を追いながら、彼女は取材メモに一行、こう書き足した。
『椎名陽――観測中。要注意』
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