第28話:氷川英玲奈の仮説と、陽への再接触

 ネット上で急速に拡散し始めた「“S”様」の噂。

 

 その情報を、危機管理機構エージェンシーの氷川英玲奈もまた、苦々しい思いで追っていた。


 まとめサイトに転載されている、例の手ブレ満載の動画。

 粗いモザイク越しにも分かる、見慣れたスーツ姿の男の輪郭。

 

 間違いない。

 「“S”様」の正体は――椎名陽、その人だった。


(……やはり、こうなってしまったのね。彼の『特異性』が、こんな形で世間の目に触れてしまうなんて……。最悪のタイミングだわ)


 英玲奈は端末に表示された複数のデータを次々に照合していく。

 

 陽のここ数週間の行動記録。

 ネット上に散見される「“S”様目撃情報」。

 そして、都内各所で観測されていた「原因不明のゲート沈静化現象」。


 重ね合わせるたびに、明確な相関関係が浮かび上がっていく。

 

 彼が「散歩」と称して立ち寄った場所の周辺では、ほぼ例外なく、微弱なゲート反応が消滅、あるいは著しく減衰していた。


(彼の無自覚な行動が、結果的に小規模なゲートの発生を抑制し、街を浄化している……。馬鹿げてるわ。でも、これが現実。彼は、本人が全く気づかないうちに、この街の“守り神”のような役割を果たしてしまっている……)


 データの客観性が、かえって英玲奈に戦慄を与えた。

 そして、それ以上に強い危機感が、彼女の中に募っていく。


 このままでは、陽の存在が、無邪気な一般市民の興味本位や、あるいは悪意ある者の手によって特定されてしまう。

 

 そうなれば、彼自身が危険に晒されるのはもちろん、彼の持つ『力』が、意図せずして悪用される可能性も否定できない。


(早急に、彼と再接触し、現状についての認識と、彼の“力”の本質について探らなければ。そして、彼を――この状況から守らなければならない)


 英玲奈は、覚悟を決めた。

 彼を保護するために、そして、その特異な存在が暴走しないようにするために。

 

 静かに、しかし確実に行動を開始する時が来たのだ。


◇ ◇ ◇ 


 数日後。

 氷川英玲奈は、陽が通勤に利用している駅の改札前で、静かに待機していた。


 夕方。

 残業を終えて人混みの中に現れた椎名陽は、英玲奈の姿に気づくなり、一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。

 

 そして、諦めたようにため息をつくと、小さく頭を下げる。


「あ、氷川さん……。どうも……。また、何か……?」


 その声には、明らかな警戒心と、そして「またお説教か……」といううんざり感が滲んでいた。

 

 英玲奈は、そんな彼の内心を見透かしながらも、努めて穏やかな笑みを浮かべた。


「椎名様。少々、お伺いしたいことがございまして。……お時間、よろしいでしょうか?」


 そしてそのまま、彼を駅近くの喫茶店へと“連行”する。

 抵抗らしい抵抗もなく、陽は渋々と後に続いた。


 店内の落ち着いた空間で、コーヒーを前にした英玲奈は、探るように切り出す。


「椎名様。最近、何か変わったことや、不思議な体験などはございませんでしたか? 例えば、ご自身の周囲で、偶然に良いことが続いたり、何か問題が自然に解決したり……」


 質問の言葉は、慎重に選ばれていた。

 核心には触れず、だが十分に情報を引き出せるように。


 陽は、カップに口をつけながら、しばし考え込むように視線を泳がせた。


「変わったこと……ですか? うーん、特にこれといって……。ああ、でも最近、お気に入りの散歩コースが、やたらと綺麗になってる気はしますね。前はもっとゴミとか落ちてたんですけど。誰か掃除してくれてるんですかね? あと、変な匂いもしなくなって……歩きやすくなって、助かってます」


 ニコニコと語る陽。

 まったく悪気のない顔で、的外れな話ばかりを並べ立てる。


 英玲奈は、内心で深いため息をついた。


(……ダメだわ。この人、本当に何も気づいていない。自分の行動がどれだけ周囲に影響を与えているのか、まるで実感がない……)


 そして――その“無自覚さ”が、かえって問題を深くしていることも、英玲奈は痛感していた。

 だが同時に、彼のその屈託のなさに、ほんの少しだけ安堵を覚えてしまう自分もいた。


(……悪意がない。無自覚だけど、少なくとも意図して何かをしているわけじゃない……。それが、余計に事態を複雑にしているのだけれど)


 その時だった。

 英玲奈の視線が、ふと陽の背後に何かの“気配”を捉える。


 ほんの一瞬、空間がゆらりと歪んだ。

 まるで陽炎のような、黒い影が揺らめいたのだ。


 それは――”影蟲シャドウバグ”。

 ステルス能力を持つ、低級魔物。

 

 周囲に気取られずに近づき、獲物に取り憑いて魔力を吸い取る、異界由来の生体兵器。


(……まずいわ。こんな場所で……ゲートの影響!?)


 英玲奈は即座に警戒を強め、迎撃の準備に入ろうとした。


 が、その瞬間――。


「んー、なんか背中がゾクゾクするな。まるで、目には見えない虫が背筋を這ったような……いや、気のせいか。ちょっと肩こってるのかな」


 椎名陽がそう言って、無意識に肩をぐるりと回した。


 その動作は、偶然にしてはあまりにも絶妙だった。

 

 回転した肩が、まさに今、陽に忍び寄ろうとしていた”影蟲”の軌道を完全に塞いだのだ。


 ”影蟲”は、陽の肩にぶつかる寸前でバランスを崩し、驚いたように姿を現す。

 

 数秒だけ、黒い塊のような影が浮かび――

 次の瞬間、壁のシミに擬態して、その姿を消し去った。


「ふぅ、なんかスッキリした。やっぱり、ちょっと運動不足ですよね、俺」


 陽は、のんびりと笑いながら、再びコーヒーに口をつけた。


 英玲奈は、その一部始終を、言葉もなく見つめていた。


(……今のは……偶然? でも、あまりにもタイミングが良すぎる。まるで彼自身が、無意識に脅威を感知し、それに反応したかのように……)


 英玲奈の額には、じわりと汗が滲んでいた。

 

 頭の中で冷静に組み上げていた論理の塔が、ゆっくりと、だが確実に揺らぎ始めている。


 椎名陽という男――。

 その存在は、もはや『普通の一般人』という枠に収まるものではない。

 

 本人がどれほど無自覚であっても、彼の周囲では“何か”が起こり続けている。


 しかも、それは偶然の連鎖とは思えない精度で、魔物を退け、ゲートを鎮め、街を守っている。

 

 その一方で、彼自身は相変わらず能天気に笑い、鼻歌まじりに散歩を楽しんでいるのだ。


(この人は一体……。もしかすると、私たちがこれまでに扱ってきたどの特異点よりも、規格外なのかもしれない)


 英玲奈の中で、分析官としての理性と、人としての感情が、奇妙にせめぎ合っていた。


 この男は、危険かもしれない。

 何が起きてもおかしくない、無自覚の“力”を持つ存在。


 けれど――。


(……でも、この人を見ていると、なぜか思ってしまう。“この人なら、大丈夫かもしれない”って。根拠なんて、どこにもないのに……)


 陽のあの、まっすぐで、飾り気のない笑顔。

 

 自分がどれほど特殊な存在かも知らず、それでも周囲を明るくしていく姿に、英玲奈は少しだけ救われる気がしてしまう。


「……あの、氷川さん? 顔色、悪いですけど、大丈夫ですか?」


 陽の声が、現実に引き戻した。

 英玲奈は、はっとして、すぐに顔を引き締める。


「……いえ、何でもありません。少し、考え事をしていただけです」


 作り笑いを浮かべながら、冷えたコーヒーにそっと口をつける。


 陽という存在に対する評価は、もはや“未知数”としか言いようがなかった。

 彼にどう接するべきか。保護か監視か、それとも――。


 英玲奈の頭の中では、膨大な情報と仮説が高速で巡り、今後の対策プランが再構築されていく。


 そして彼女は、自分の中に生まれた一抹の感情を、そっと心の奥に押し込めた。

 この混沌を前に、分析官としてやるべきことは、まず「知ること」だ。


 椎名陽とは、何者なのか。

 この問いの答えを導くには、まだ観察が必要だった。

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