第20話:三度目のダンジョンは「健康のため」
陽は、氷川英玲奈から提示された大量の物々しい書類に困惑していた。
まるで悪魔との契約書のようだ。
『魔石譲渡契約書』『機密保持誓約書』『反社会的勢力でないことの表明・確約書』──。
どれも聞き慣れない、威圧的で不穏なタイトルばかり。
普通の会社ではまずお目にかかれない。
(うへぇ……。石ころ売っただけなのに、こんなに書類がいるのか?)
(しかもなんかとんでもないことが書いてあるぞ……大丈夫かこれ)
ページをめくる手が止まる。
陽の目がある一文に釘付けになった。
「本契約によって知り得た情報を第三者に漏洩した場合、当機構は法的措置を講じることがあります。また、それによって生じたいかなる損害も賠償を請求いたします」
(……怖っ! 超怖っ! 下手なこと言ったら人生終わるレベルじゃ……?)
契約書の細かく難解な条文を読むたび、陽の中に不安が広がる。
会社で扱う契約書とは違い、今回は絶対に触れてはいけないものに触れたような不気味な感覚があった。
ふと過去のトラウマが脳裏をよぎる。
契約内容の見落としで上司から数時間叱責された地獄の一日──。
胃の痛みと冷や汗を鮮明に思い出す。
もう二度とあんな思いはしたくない。
(『危機管理機構』って一体なんなんだ……? 本当にただの会社なのか……?)
(氷川さんは『専門機関』とか言ってたけど……胡散臭すぎる……)
眉をひそめ書類から視線を外す。
彼女の言葉には現実味のないSF映画のような空気が漂っていた。
(なんか俺……ヤバい裏社会の秘密組織に足突っ込んじゃったんじゃないだろうな……もう抜け出せないとか……)
(もう普通のサラリーマン生活には戻れないのか……? 俺の日常は終わってしまったのか……?)
絶望的な考えが頭を巡り、背中に嫌な汗が滲む。
陽は自分の状況の異様さと危険性を少しずつ理解し始めていた。
陽の不安などお構いなしに、氷川英玲奈は淡々と説明を続ける。
その落ち着き払った態度がかえって陽の緊張を増幅させる。
「こちらの書類にご署名とご捺印をお願いいたします。なおこの『機密保持誓約書』は特に厳重に未来永劫厳守していただきたく存じます」
丁寧だが氷のように冷たい口調。目は全く笑っていない。
「椎名様が『ダンジョン』で体験されたこと、ご覧になったもの、そしてわたくし共『危機管理機構』の存在そのもの──。これらすべてが国家機密レベルの最高機密事項となります」
喉が渇く。
陽はゴクリと唾を飲み込んだ。心臓が激しく脈打つ。
(うう……。もう後戻りできない道に足を踏み入れちゃった感じがする……断れない雰囲気だし……)
心の中で弱音を吐きつつ、頭では冷静に損得勘定を弾き出す。
(でもここで断ったらもっと面倒なことになりそうだしな……この人たち本気でヤバそうだ)
(それにあの『魔石』で大金をもらったのは事実だし……ここでゴネて「金返せ」とか言われたら目も当てられない)
葛藤の末、陽は観念したようにペンを取り、禍々しい書類に震える手でサインを始めた。
まるで魂を悪魔に売り渡すかのように。
その様子を氷川英玲奈は静かに鋭く観察していた。
彼女の眼差しは冷静だが、内心では複雑な作業が高速で進行している。
彼がこの状況をどう理解し受け止め、今後どう行動するのか──。
それは彼女と組織にとって重要な分析材料だった。
彼女の手元のタブレットには、陽の微細な表情変化や生体データがリアルタイムで記録されている。
それらは特殊なセンサーで遠隔取得された極秘データだ。
すべては椎名陽という謎の人物のプロファイリングに利用される。
(……今のところ不審な点は見られないわね。パニックになってもおかしくないのに妙に落ち着いているのが逆に不気味だけど)
(むしろ彼の『戸惑い』や『不安』は正常な反応の範疇。問題はその先よ)
冷静な思考の裏で、英玲奈は彼の未知の潜在能力に警戒と期待を強めていた。
(問題は彼の異常な『ダンジョン適性』と『無自覚さ』……。彼が再びダンジョンに接触する可能性は極めて高い。そのときの行動を予測し、適切な介入準備を整えておく必要があるわ。最悪の事態も想定して)
陽に向ける視線は丁寧で事務的。
だが彼女の心の内では既に複数の管理プランが緻密に検討されていた。
彼はまだ自分がどれほど大きな危険に関わり始めているのか知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
椎名陽の日常は表面的には何も変わっていなかった。
相変わらずの満員電車、理不尽な上司、サービス残業。
灰色の世界で意味のない忙しさだけが過ぎていく。
だが陽の内面には確かな変化が訪れていた。
まず銀行口座の大金によって心に余裕が生まれた。
そして『ダンジョン』での強烈な出来事が時折頭をよぎるようになった。
「あの洞窟……。あの不思議な場所……」
陽は時々無意識に考えている自分に驚いた。
(またあの扉現れないかな……。いや現れてほしいような、でもやっぱり現れてほしくないような……)
もし再びあの扉が現れ、洞窟に入ることになったら──。
(もし今度こそ本当にヤバいことになったらどうしよう……)
それでもあのドキドキ感と石を見つけたときの達成感は忘れられない。
強烈な経験が心の奥底に深く刻まれている。
あれほど怖い思いをしたのに、なぜかその危険な感覚を心のどこかで求めている自分に気づく。
(でも俺……ちょっとだけ、いやかなりあの場所にハマっちゃったのか? いやいやそんなはずはない……)
陽は内心で強く否定する。
(ただの気分転換だったんだよな。うん、そうに違いない。あの契約書だって怖いことが山ほど書いてあったし……)
だが言いようのない不安と抗いがたい魅力を払拭できず、陽は通勤途中で立ち止まった。
あの禁断の空間への渇望が心の奥底で力強く芽生え始めているのを感じていた。
退屈で息苦しい生活からの劇的な逃避──。
それが今の彼にとっての『ダンジョン』の意味なのだろう。
あの場所で感じた「生きている」という強烈な実感が、無気力な陽には懐かしく切実に必要だと感じさせていた。
そんなある日の夕方、サービス残業を終え疲れ切って駅の連絡通路を歩いていた陽は足を止めた。
目の前に信じられない光景が広がっていた。
視線の先にはまたあの古びた不気味な扉があった。
数日前と全く同じ場所に彼を待ち構えていたかのように静かに佇んでいる。
(……またある……。嘘だろ……)
陽は心の中で絶望と少しの期待を込めてつぶやいた。心臓が大きく跳ねる。
(どうしよう……。今日はやめておいた方がいいよな……。この前怖い思いをしたばかりなのに……)
契約書の内容が頭をよぎる。機密保持義務違反。
もし契約を破ったら──法的措置を取られるという現実的な不安が彼を支配した。
それでもあの扉が妖精の歌声のように甘美に彼を呼びかける。
(でもあの人……氷川さんもなんとなく俺がまた来ると思ってたような気がするし……)
陽の心の中で期待と不安が激しく交錯する。
再び足を踏み入れるべきか、遠慮するべきか──。
一瞬躊躇する。
だが理性的な不安は薄れ、抗いがたい好奇心と冒険心が燃え上がり、陽はついに口を開いた。
(いやこれは健康のためだ。うん、そうだ。健康のためなんだ)
苦しい言い訳に自分でも呆れつつ、陽はそう無理やり自分に言い聞かせた。
(最近運動不足だし、洞窟の中を歩けばいい運動になる。そうそう健康増進だ。誰にもバレないだろ。うん、完璧な理由だ)
陽は都合よく自分を納得させ、吸い寄せられるように扉に手をかけた。
その軽率な行動がどれほど周囲を驚愕させることになるのか、彼にはまだ知る由もなかった。
扉に手をかけた瞬間、再び葛藤を感じた。
(これで本当にいいのか? 俺の人生終わっちゃったりしないか?)
切実な思いがよぎったが、すぐに楽観的で無責任な声が悪魔のように囁く。
(いやもういいだろう。どうにでもなれ。ちょっと歩くだけだし、バレないように気をつければ問題ないさ)
陽は心の中で危険な決断を固めた。もはや引き返せない。
体が先に動き、運命に導かれるように扉をゆっくりと押し開けた。
ギィィ、と不気味な音が響く。
暗く冷たい通路の向こうに広がる異世界の気配を感じながら、陽は夢遊病者のように一歩を踏み出した。
中に入った瞬間、独特の湿ったカビ臭い空気とひんやりとした肌触りが全身に広がる。
強烈な感覚に息を呑んだ。
時間が止まったかのような静寂と薄暗い異空間が彼を優しく包み込んだ。
(ああここだ……。また来ちゃった……)
陽は胸が高鳴るのを感じた。恐怖と少しの期待。
あのダンジョンと同じ「生きている」という強烈な実感が麻薬のように全身に戻ってきた。
あれほど恐ろしい思いをし固く誓ったはずなのに、再びこの禁断の場所に足を踏み入れてしまった自分が不思議でならない。
だが心のどこかでそれを狂おしいほど歓迎しているもう一人の自分がいた。
(まあちょっとした散歩だよな……。ほんのちょっとだけだ)
陽は苦しい言い訳を必死に思い浮かべる。
(ここで少し歩いて気分転換してすぐに戻ればそれで終わりだ。誰にも迷惑はかけない)
だが実際にはもう彼の心の中で何かが決定的に変わりつつあった。
この未知なる禁断の場所に足を踏み入れたことで得られる強烈な刺激。
それは彼にとってなくてはならないものになりつつあった。
(やっぱりなんだかとんでもなくワクワクしてきたな……。俺どうしちゃったんだろう……)
危険な気持ちをどう捉えていいのか陽自身も分からなかった。
ただあのドキドキ感と達成感をもう一度味わいたいと心の奥底で渇望しているもう一人の自分がいた。
彼は完全に魅入られてしまったのだ。
(次はどんな冒険が待っているんだろう? もっと凄いお宝が見つかるかもしれない)
陽は暗い洞窟の奥へ進むごとに楽しげな破滅的な気持ちが湧き上がるのを感じた。
それと同時に無視できない不安もあった。もし見つかったら……。
(でもやっぱりさっきの契約書のことが気になる……。バレたら本当にヤバいんじゃ……)
陽は氷川英玲奈の冷たい目を思い出す。
「機密事項」として守らなければならないと肝に銘じていたはずだった。
だが何か強大な力がそれを軽視させ彼をこの危険な場所へと引きずり込んでいた。
ただの「ちょっとした散歩」として自分を納得させているだけなのだろうか。
それとももう彼は完全に……。
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