第19話:危機管理機構内の噂「謎の凄腕が現れたらしい」
椎名陽という男が、二日続けて『危機管理機構』の臨時拠点を訪れた。
規格外の量の、高品質な『魔石』を手に。
その事実は、氷川英玲奈の情報統制もむなしく、徐々に広まっていた。
噂は瞬く間に一部職員の間で、禁断の果実のように囁かれ始める。
尾ひれ背びれがつきまくって。
もちろん、陽の個人情報や『冥府の黒曜石』のような災害級魔石の情報は最高機密だ。
漏洩は組織の存亡に関わる。
しかし、噂とは煙のようなもの。
「ヤバい新人が、見たこともない凄い『魔石』を根こそぎ持ち帰ってるらしいぞ」
そんな都市伝説めいた話が、まことしやかに広がっていく。
人の好奇心は、時にどんな情報統制より強いのだ。
噂はいつしか真実からかけ離れ、椎名陽の人物像も歪曲されていった。
最初は「冴えないサラリーマン風の男」が偶然大量の魔石を見つけた、という話だったのだが。
◇ ◇ ◇
「おい、聞いたか? 受付に現れたっていう、あの怪しいサラリーマン風の男」
昼休み。
臨時拠点内の休憩スペースで、数人の若手フィールドエージェントが声を潜める。
彼らは普段、命がけで『ダンジョン』に潜る実働部隊の精鋭だ。
「聞いた聞いた! 見た目は冴えないオッサンらしいが、とんでもない量の超高純度『魔石』をゴミみたいに持ってきたんだろ?」
別の隊員が、羨望の色を隠さずに目を輝かせる。
「しかも二日連続でかすり傷一つないって、どういうことだよ? チートか?」
「一体どんな『ダンジョン』に潜ってるんだ、その謎のオッサン……。未発見の伝説級か?」
隊員たちは興奮を隠せない。
彼らの日常は常に死と隣り合わせなのだ。
「いや、それが全く分からん。あの氷川主任が鉄のカーテン敷いててな」
最初に口火を切った隊員が、楽しげに続ける。
「俺たちが知ってるのは、男のコードネームがふざけた『ウォーカー』で、持ち込んだ『魔石』の量が尋常じゃなかったってことくらいだ。桁違いらしいぜ」
『ウォーカー』。
男の「ダンジョン内を歩いていたら魔石がゴロゴロ落ちてた」という、信じがたい証言から分析官たちが皮肉半分で付けたとか。
成果を見れば、あながち的外れでもないのが腹立たしい。
「でも二日連続で無傷って、おかしいだろ? 何か裏がある」
「S級スキル持ちじゃねえの? 完全ステルスとか、超危険察知とか」
誰かの冗談めいた、しかし本気の願望が混じる。
「あり得るな。じゃなきゃ悪名高い『ゲートNo.7』の最深層近くで、ピクニック気分で『魔石』拾いなんてできねえ。あそこは俺たちでも命懸けだぞ」
「ゴブリン・キングの目撃情報もある超危険地帯だ。化け物か、あのオッサン」
別の隊員が身震いした。
現実離れした話に、皆ゴクリと唾を飲む。
「もしかしたら伝説の『S級冒険者』とか、そういう裏世界の存在なんじゃねえの? サラリーマンのふりしてるとか」
「ははっ、漫画の読みすぎだろ。でも夢があるよな。そんな凄い奴がいたら、俺たちの仕事も少しは楽になるかもな」
彼らは都合のいい憶測を語り合う。
羨望、少しの嫉妬、淡い期待。
椎名陽という「謎の凄腕(?)」の出現は、過酷な日常からの現実逃避でもあった。
◇ ◇ ◇
一方、そんな噂の中心人物、我らが椎名陽は。
その日の午後、再び『株式会社ワールド・コネクト・ソリューションズ』の物々しい受付を訪れていた。
少し緊張気味だ。
新たな『魔石』を持ってきたわけではない。
今回は純粋に事務的な用事、と本人は思っている。
昨日、氷川英玲奈から「買取金額の振込手続きにご確認いただきたい事項がございますので」と、丁寧だが有無を言わせぬ連絡があったのだ。
(振込手続きの確認……ねえ。普通、電話かメールで済むよな。わざわざ呼び出すなんて、やっぱり変わってる会社だ)
陽は胸のドキドキを感じながら、受付で名前を告げた。
しばらくして、昨日とは違う生真面目そうな若い男性職員が現れ、無言で応接室へ案内する。
その目もどこか探るようだ。
通されたのは、昨日よりさらに簡素で冷たい雰囲気の部屋。
傷だらけのテーブルと硬そうなパイプ椅子。
壁には不気味な風景画。
まるで――
取調室。
(本当に取り調べ室みたいだな……。俺、何か悪いことしたっけ……? たぶん、してないはず)
陽はネガティブな思考に、へらりと笑みを浮かべる。
「そんなわけない。俺は善良な一般市民だ」
自分を諫めるように部屋を見渡すが、やはり落ち着かない。
その時、静かにドアがノックされ、氷川英玲奈が入ってきた。
昨日と同じく凛とした制服姿。手には書類とタブレット端末。
表情は昨日より幾分和らいで見えるが、陽はその微妙な違いをなぜか感じ取った。
彼女の美しい瞳の奥に、戸惑い、警戒、興味が入り混じる複雑な感情が揺らめくのが見えた気がした。
(この人……やっぱり普通の社員じゃないよな……。俺のこと、どう思ってるんだろう)
一瞬考えたが、詮索するような疑問を振り払う。
氷川英玲奈は陽の戸惑いなど意に介さず、優雅に一礼し、向かいの席に音もなく腰を下ろした。
「お待たせいたしました、椎名様」
声は冷静で透き通っているが、昨日より柔らかさも感じる。
「本日はお忙しい中ありがとうございます。早速ですが昨日の『魔石』の買取金額の振込手続きについて、ご確認とご署名をいただきたい書類がございます」
氷川英玲奈はそう言って、テーブルに重要そうな書類を広げた。
陽は書類を見て目を瞬かせる。
量もさることながら、内容が普段見慣れたものと明らかに違う。
振込先の口座情報、天文学的な金額、そして何ページにもわたる難解な法律用語の呪文。
(うわ……。やっぱりただの石ころの売買じゃないんだな、これ……。完全にヤバい取引の契約書じゃないか……)
陽は物々しさに少し眩暈を覚えた。
専門用語が多すぎ、ずっしりとした重みと、どこか不吉な気配。
まるで悪魔との契約書だ。
氷川英玲奈は、陽の反応を獲物を観察する鷹のようにじっと見守っている。
「それでは、まずこちらの書類に隅々まで目を通していただけますか?」
彼女の声には、昨日より確かな緊張がこもっているようにも感じられた。
陽は気づかないふりをして、恐る恐る書類に目を落とす。
最初に目に入ったのは、振込先の口座情報と天文学的な金額。
昨日提示された、信じられない額だ。思わず目をこする。
(これが『魔石』の代金か……。何度見ても信じられない……)
その額が本当に自分のものになるとは、まだ実感が湧かない。
だが書類には冷厳な事実として記載されている。
次に目を引いたのは、何ページも続く迷宮のような契約条項。
「納品物件に関する詳細」「所有権及び危険負担の移転」「契約不適合責任及び表明保証に関する免責」「機密保持義務及び反社排除誓約」「契約解除及び損害賠償に関する過酷な条件」……。
陽には到底理解できそうにない。
(こんな悪魔の呪文みたいな契約書、普通の人が見ても絶対わからんぞ……)
陽は困惑し、分厚い書類を絶望的な気持ちでめくった。
異次元の世界の話のようだ。
(俺、これに本当にサインして大丈夫なのか……? 魂とか取られたりしないよな……?)
切実な疑問が浮かぶ。
普段の会社の契約書ですら、ろくに読まずサインすることがある。
だがこれは、そう簡単に済ませていいものではない気がした。
本能が危険を告げている。
しかし、氷川英玲奈の鋭い眼光が、抗えないプレッシャーを放っていた。
「えっと……その……」
陽はか細い声で口を開いた。
「この書類の内容って、普通の契約書とかなり違いますよね? ものすごく専門的で物々しい感じが……。国家機密みたいですね」
思わず素直な感想が漏れた。
氷川英玲奈は美しい眉一つ動かさず、静かに答える。
「はい、椎名様のおっしゃる通りです。この契約書は通常の売買契約書とは性質も重要度も根本的に異なります」
白い指で書類の特定箇所を指し示す。
「『魔石』のような極めて特殊で潜在的危険性を伴うアイテムの取引には、厳密かつ詳細な規定が必要不可欠なのです。万が一の事態に備えねばなりませんので」
重々しい口調だ。
「この書類に椎名様ご自身のご署名とご捺印をいただければ、『魔石』は正式に当社の所有物となり、買取金額の振込手続きが速やかに進められます。どうぞ隅々までご確認の上、ご納得いただけましたらご署名をお願いいたします」
陽は説明を聞きながら、再び絶望的な気持ちで書類を見つめた。
納得しつつも、拭いきれない疑念と得体の知れない恐怖が渦巻く。
(普通の契約書とは比べ物にならないくらい重要で、危険な内容な気がする。これにサインしたら、もう後戻りできないような……)
即座に決断できず、黙って難解な書類に目を通し続ける。
その時、氷川英玲奈がふと口調を和らげた。
「椎名様、もし何かご不明な点やご懸念がございましたら、どうぞご遠慮なくお申し付けください。わたくし共は、椎名様にご納得いただけるまで全力でサポートいたします」
その言葉には真摯さが感じられた。
だが陽は、彼女の真意を測りかねる。
(もしかしてこの人、俺のことをかなり注意深く観察してるのか……? 一挙手一投足を見逃さないように……)
陽は少し考え込んだ。
人生を左右する選択かもしれない。
息詰まる沈黙が続く。
やがて陽は、何かを決心したかのように書類に目を戻した。
「……わかりました。少し時間をかけて考えさせてください。そして納得できたら、サインします」
そしてようやく、難解極まりない契約書を一字一句、真剣に読み進め始めた。
彼の運命は、この一枚の紙切れに託されようとしていた。
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