第21話:オークも逃げ出すサラリーマン?
椎名陽は、二度目の『ダンジョン』探索に、足を踏み入れていた。
前回のような極度の緊張はなく、足取りもいくらか軽い。
しかし、警戒を完全に解いたわけではなかった。
あの奇妙な扉をくぐった瞬間から、肌に感じる空気の質が明らかに違うのだ。
ひんやりとして、どこか原始的な匂いがする。
(やっぱりこの場所、空気が違うよな……。会社のオフィスよりは……いや、比べるのもおかしいか)
(また、健康のための散歩だと言い訳して入ってきたダンジョンだったが――今回は、ちゃんと警戒しよう)
陽は、そんなことを考えながら、壁の発光する苔が照らし出す道をゆっくりと進む。
前回同様、足元には時折『魔石』らしきものがキラキラと光っている。
彼は、それを一つ一つ丁寧に拾い集めた。
(今回は、あんまり欲張らないようにしよう。氷川さんにも悪いしな。ほどほどにして、すぐに帰ろう。うん、それがいい)
自分にそう言い聞かせるが、見つけるたびに手が伸びてしまうのは、人間の
あるいは、彼の持つ未知の『何か』が、彼を『魔石』へと引き寄せているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
しばらく進むと、前方から何やら荒々しい息遣いと、獣のような唸り声が聞こえてきた。
陽は、ぴたりと足を止める。
(ん……? なんの音だ……? 前回はいなかったよな、こんなの……)
明らかに、前回の『ゴブリン』たちとは違う、もっと大きく、そして凶暴そうな気配。
陽の額に、じわりと汗が滲む。
さすがの彼も、少しだけ緊張感を覚えた。
(もしかして、ちょっとヤバいやつか……? いやいや、大丈夫だ。前回も何とかなったんだし。きっと、今回も何とかなる……はず)
彼は、そう自分に言い聞かせながら、おそるおそる物音のする方へと近づいていく。
通路が少し開けた場所に出ると、そこにいたのは――。
(でかっ……!)
緑色の肌をした、筋骨隆々の巨人だった。
身長は2メートルを優に超えているだろう。
豚のような突き出た鼻面。鋭い牙。
そして、血走った小さな目が、獲物を求めるようにギョロギョロと動いている。
その手には、人間の子どもほどの太さもある巨大な棍棒が握られていた。
ファンタジー作品でよく見かける、『オーク』と呼ばれる魔物によく似ている。
いや、それそのものかもしれない。
その『オーク』は、何かを探すように周囲を見回していたが、やがて陽の存在に気づいた。
グルルル……と喉を鳴らし、威嚇するような低い唸り声を上げる。
そして、巨大な棍棒を振り上げ、明らかに敵意をむき出しにして、陽に向かって突進してきた。
地響きがするほどの迫力だ。
(うわああああ! やっぱりヤバいやつじゃんか! なんで俺、近づいちゃったんだよぉぉぉ!)
陽は、内心で絶叫した。
しかし、不思議なことに、彼の体は恐怖で竦み上がることはなかった。
むしろ、どこか冷静に、迫りくる巨人の動きを見極めている自分がいる。
まるで、アクション映画のワンシーンをスローモーションで見ているかのような感覚。
ドゴォォン!!
オークが振り下ろした棍棒が、陽がほんの数瞬前まで立っていた場所を叩き潰す。
地面が砕け、土煙が舞い上がる。
しかし、陽は、まるで風に吹かれた木の葉のように、ひらりとその一撃をかわしていた。
自分でも、どうやって避けたのか分からない。
ただ、体が勝手に動いたのだ。
「グオオオッ!?」
(なぜ当たらん!?)
オークは、獲物を仕留め損ねたことに驚き、さらに怒りを露わにする。
再び棍棒を振りかぶり、横薙ぎに陽を襲う。
しかし、それもまた、陽は最小限の動きでひょいと身をかがめて回避した。
棍棒は空を切り、オークは勢い余ってたたらを踏む。
(……あれ? なんか、俺、すごくない? いや、すごくはないか。たまたまだよな。うん、たまたまタイミングが良かっただけだ)
陽は、自分の異常なまでの回避能力に気づきつつも、それをすぐに「偶然」として処理しようとする。
しかし、オークの方はそうはいかない。
二度も攻撃をかわされたことで、彼のプライドはズタズタだ。
そして、目の前のひ弱そうな人間に対する警戒心と、ほんの少しの恐怖が芽生え始めていた。
「グガッ……グギギ……」
(こ、こいつ……何者だ……!? ただの人間ではない……のか……!? あの無表情……まるで感情がないように見える……あれは、もしかして『深淵の怪異』の類か……!?)
オークは、後ずさりしながら陽を睨みつける。
その目には、先ほどまでの凶暴な光はなく、代わりに戸惑いと怯えの色が浮かんでいた。
彼には、陽の姿が、何か得体の知れない、恐ろしい存在に見え始めていたのだ。
陽の、何を考えているのか分からない、のんびりとした表情が、オークにとっては逆に「底知れぬ恐怖」を感じさせたのかもしれない。
一方の陽は、そんなオークの内心の変化など全く気づいていない。
(うーん、どうしようかな……。この人、まだやる気みたいだし……。でも、俺、戦うのとか無理だしな……。とりあえず、謝ってみるか……? いや、謝ってどうにかなる相手じゃなさそうだし……)
彼は、どうしたものかと首を傾げる。
その、あまりにも緊張感のない態度が、オークの恐怖心をさらに煽った。
「あのー……何か、ご用でしょうか……? もしかして、俺、何か邪魔しちゃいました……?」
陽は、とりあえず当たり障りのない言葉をかけてみることにした。
その瞬間だった。
「グギャアアアアアアアッ!!」
(ひぃぃぃぃぃ! 逃げろぉぉぉぉ! アレはヤバい! 関わったら食われる!!)
オークは、まるでこの世の終わりでも見たかのような絶叫を上げると、巨大な体躯に似合わない俊敏さで踵を返し、一目散に逃げ出したのだ。
その逃げ足の速いこと速いこと。
あっという間に、通路の奥へと姿を消してしまった。
「…………え?」
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす陽と、オークが暴れたことによって散乱した土くれだけだった。
(……なんだったんだ、今の……。俺、何かしたっけ……? ただ、声かけただけだよな……? もしかして、俺の顔、そんなに怖かったのかな……。いや、それはないか)
陽は、全く状況が理解できないまま、首を傾げるしかなかった。
彼が、その無自覚な『威圧感(のような何か)』と『幸運』によって、凶暴なオークすらも退散させてしまったという事実に、気づくはずもなかった。
彼にとっては、またしても「よく分からないけど、何とかなった」出来事が一つ増えただけなのである。
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