第18話:翌日の陽「あの受付の人、大丈夫かな」

 陽にとって悪夢のような『ダンジョン』体験と『魔石』の高額買取という、天国と地獄を味わう二日間が過ぎた。

 

 そして迎えた三日目の朝。

 

 陽はほんの少しだけ、しかし確かにすっきりとした気分で目を覚ました。

 憑き物が落ちたかのように。


 もちろん長年の社畜生活で蓄積された疲労が一晩で癒えるわけもなく、肩や首にはまだ鈍い重さが残る。

 

 それでも昨日の夢のような臨時収入か、カフェでの贅沢の効果か、心のどこかに僅かなゆとりを感じていた。

 

 砂漠で見つけたオアシスのような感覚だった。


「……よし、今日も一日、なんとか生き延びるか」


 そう呟いていつもより少し前向きな気持ちでベッドを抜け出す。

 

 洗面所で鏡を覗き込むと目の下の隈は相変わらずだが、顔つきは昨日より幾分マシに見えた。

 生気が戻ったかのようだ。


「……気のせいかもしれないけど。いや、きっと気のせいじゃない」


 苦笑し顔を洗い、いつものインスタントコーヒーを淹れる。

 その香りすら今日はどこか違って感じられた。


 朝のルーティンとしてスマホでニュースをチェックすると、相も変わらず不快な話題が画面を埋め尽くす。

 

 政治家の汚職、大企業の不祥事、痛ましい事故……。

 世界はいつも通り混沌としている。

 

 だが今日はそれらに触れても絶望的な気分にはならなかった。

 不思議と心が凪いでいる。


「まあ、世の中いろいろあるけど……俺にはあの臨時収入があるしな。心のセーフティネットだ」


 陽はそう自分に強く言い聞かせスマホをテーブルに置いた。


「ちょっとだけ心に余裕ができた気がする。お金って本当に偉大だな」


 現金なものだ――そう自嘲する。

 それでもお金が人の心に与える影響は計り知れないほど大きい。


 気分が羽のように軽くなったのを感じ、珍しく鼻歌まじりに朝食の準備を始めた。

 

 メニューはいつもと変わらず味気ないトーストだが、それでもどこか新鮮で美味しく思える不思議な朝だった。


◇  ◇  ◇


 会社へ向かう地獄のような満員電車の中。

 

 ぎゅうぎゅう詰めの車内で吊革につかまりながら、陽は自然と昨日の奇妙な出来事を思い出していた。

 

 特に頭をよぎるのは氷のように怜悧でどこか人間味のある女性――氷川英玲奈の姿だった。


「……あの人、大丈夫だったかな。なんだかすごく疲れてるみたいだったけど」


 昨日彼女は陽が持ち込んだ得体の知れない『魔石』の数々を目にしたとき明らかに様子が変わった。

 

 普段の冷静沈着さが仮面のように剥がれ落ちたようだった。

 

 特にあの赤黒い不吉な輝きを放つ石――『冥府の黒曜石』とかいう禍々しい名前のやつを見た瞬間の反応はただごとではなかった。

 

 顔から血の気が引いていくのが分かった。


 表情は強張り声もわずかに震えていたように思う。

 

 そして最後に絞り出した「専門の……いえ、また何かありましたら、ご相談ください」という途切れ途切れの言葉には、深い疲労と何かを諦めたような響きが滲んでいた。

 

 あのときの痛々しい声が今も耳の奥に残っている。


「……俺、やっぱりとんでもなくヤバいものを持ち込んじゃったのかもな。彼女に多大な迷惑をかけたのかもしれない」


 彼女の立場や正確な職務について陽は何も知らない。

 ただの受付嬢ではないことだけは確かだが。

 

 あの場の緊迫した雰囲気から察するに彼女が扱っているものは並大抵のものではなさそうだ。

 

 そしてあの組織――『危機管理機構』という仰々しい名前の組織も、きっと想像を絶するほど大変で危険な仕事をしているに違いない。


「もしかしたら俺が知らないだけで彼女も色々なものを背負って毎日必死に戦っているのかもしれないな……」


 そう思うと昨日の自分のあまりにも軽率で無知で能天気な行動が今更ながら恥ずかしく思えてきた。

 

 自分にとってはただの“綺麗な石ころ”でも専門家にとっては全く違う意味を持つのかもしれない。

 

 下手に素人が興味本位で手を出すべきではない禁断の領域のものだった可能性もある。


 車窓から流れる灰色の景色をぼんやり眺めながら陽はふと考えた。


「あの人……あの鋭い全てを見透かすような目、ただの会社の受付の人には到底見えなかった。もっとこう揺るるぎない覚悟とか……崇高な使命感みたいなものが瞳の奥に宿っている感じだったな」


 氷川英玲奈の真剣な眼差しを思い出すたび胸の奥に小さな棘のようなざらつきが残る。

 罪悪感とほんの少しの好奇心。


 彼女が関わる『危機管理機構』という謎めいた存在。

 

 そして『ダンジョン』や『魔石』といった非現実的なもの。

 

 平凡な世界とは無縁だと思っていたそれらが少しずつ現実味を帯びて迫ってくるような奇妙で少し不気味な気がした。


(『ダンジョン』とか『魔石』とか……。あの、おとぎ話みたいなものが……)


 満員電車の不快な揺れに身を任せながら陽はぼんやりと考える。


(あんなファンタジー小説の中だけのものが本当にこの世界に存在してるってことなのか……? 俺が今まで知らなかっただけで。世界の裏側ではそんなとんでもないことが起こっていたのか……?)


 頭では現実だと理解していても心のどこかで受け入れきれない部分がある。

 信じたくないという方が正しいのかもしれない。

 

 けれど確かに自分は“あの場所”にいた。

 そして“あの石”を持ち帰りそれがとんでもない大金になった。

 否定しようのない事実だった。


 昨夜眠りにつく直前に感じた不安が再び胸の奥底から浮かび上がる。

 

 ――もしかしたら自分はもう二度と“普通”の人間ではいられないのかもしれないという根源的な恐怖。


「あの『ダンジョン』でなんで俺だけあんなに冷静で平気でいられたんだろう……。普通ならもっとパニックになってもおかしくないのに」


 命の危険があったはずなのに恐怖心は驚くほど薄かった。

 むしろどこか楽しんですらいた。

 

 それにあの魔石。

 氷川英玲奈があれほど驚愕し警戒した危険な代物をなぜ自分が導かれるように“たまたま”見つけ出せたのか。

 

 偶然にしては出来すぎている。


(……もし本当に万が一億が一俺に何か“特別な力”みたいなものが自分でも気づかないうちに備わっているとしたら……。そんな馬鹿な……)


 陽はそこで思考を無理やり止めかけた。

 それが“良いこと”なのか“悪いこと”なのか即答できなかったからだ。

 

 どちらに転んでも面倒なことになるのは目に見えている。


(いやそもそも“特別”って一体何なんだ? 目立つことか? 人と違うってことか? それって果たして幸せなことなのか……?)


 次から次へと答えの出ない疑問が浮かんできて心が暗く重くざわつく。

 嵐の前の静けさのように。

 

(俺はただ平穏無事に誰にも迷惑をかけずに目立たずに空気のように暮らしたいだけなんだ。それ以上は何も望んでいない)


“特別”であることは望ましくない面倒な事態を引き寄せる――それが彼がこれまでの人生で学んだ数少ない確かな教訓だった。


(……そうだきっと気のせいだ。俺は何も特別じゃない。ただのどこにでもいる平凡な会社員だ)


 陽は心の中で自分に言い聞かせるように強く何度も繰り返す。


(たまたま本当に偶然運が良かっただけだ。そうに決まってる。そうじゃなきゃ……困るんだ。本当に困るんだよ……)


 その悲痛な思いを振り払うようにイヤホンを耳に強く押し込み大音量で音楽を再生する。

 

 だが流れてくるはずの激しいロックはなぜかどこか上の空で少しも心に入ってこなかった。


 音楽の暴力的なリズムが耳に流れ込む。

 けれど彼の心は依然としてどこか上の空だった。

 

 氷川英玲奈――あのどこか影のある真剣な眼差しがどうしても頭から離れない。

 

 彼女の声色、微細な表情の変化、そしてあの最後の何かを諦めたような言葉。

 そのひとつひとつが彼女が何か重いものを一人で背負っているように思えた。


 自分の持ち込んだ得体の知れない『魔石』が彼女にとってどれほどの意味を持ちどれほどの負担を強いたのか。

 

 陽にはまだ正確にはわからない。

 ただ少なくとも――


(俺、とんでもない迷惑をかけたんじゃないか……。あの人に余計な仕事を増やしてしまったんじゃないか……)


 ふと胸の奥がチクリと針で刺されたように痛んだ。

 罪悪感とほんの少しの後悔。


 あの石がどれほど危険なものだったかは正確には理解できていない。

 ただの綺麗な石ころだと思っていた。

 

 だが彼女の尋常ではない反応を思い返すたび陽は自分のあまりにも軽率で無知だった行動を後悔せずにいられなかった。

 

 彼女を困らせてしまったのかもしれない。


(……次に会うことがあったらちゃんと謝ろう。一言だけでもいいから)


「昨日は本当にすみませんでした。ご迷惑をおかけしました」


 その一言くらいは人として言わなければならないような気がした。


(それと……もし許されるならあの石のことももう少し詳しく聞けたら嬉しいんだけどな……)


 そう考えかけたがすぐにぶんぶんと首を振る。

 危険な考えだ。


(……いややっぱりやめておこう。深入りは禁物だ)


 下手に興味本位で踏み込めばまた面倒なことに巻き込まれるかもしれない。

 

 自分には全く関係のない異次元の世界なのだ。

 きっとそうだ――そうであってほしい。


 陽はそうやって自分の心に湧き上がったほんの小さな好奇心と罪悪感に無理やり蓋をした。

 

 それが彼が長年培ってきた自分なりの“処世術”であり自己防衛の本能だった。

 

 ただその彼のささやかな気遣いは――そしてその浅はかな自己防衛は恐らく完全に的外れだった。

 もはや手遅れなのだ。


 彼が考えている以上に氷川英玲奈と彼女が所属する『危機管理機構』は彼の存在と彼が引き起こした事態を極めて重く深刻に見ていた。

 

 そして今まさに椎名陽というあまりにも規格外な存在を巡って国家レベルのいやあるいは世界レベルの“何か”が静かにしかし確実に動き始めている。

 

 彼の知らない場所で彼の全く知らない恐ろしい意図のもとに。

 そんな破滅的な事実に陽はまだ全くこれっぽっちも気づいていなかった。

 

 彼はまだ平穏な日常の中にいると信じている。

 その日常がすでに崩壊し始めていることにも気づかずに。

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