第17話:初めての臨時収入と、ささやかな贅沢
椎名陽は、その日、人生初の大金が自分の銀行口座に振り込まれたという現実離れした事実を、うまく消化できずにいた。
「なんかすごい石ころを高値で買い取ってくれる不思議な会社」――危機管理機構の臨時拠点で提示された金額は、彼の年収に届きそうな勢いだった。
宝くじにでも当たったかのようだ。
(本当に……振り込まれてる……。ゼロの数、間違ってないよな……?)
会社の昼休み。
陽はデスクでスマホのネットバンキングアプリを開き、何度も残高を確認する。
見慣れない桁数の数字が嘲笑うかのように表示されている。
ゲームのハイスコアのように現実味がない。
手の震えが止まらない。
(これだけあれば……奨学金の返済、かなり進められるぞ。実家の親にも仕送りできるかも……いや、その前に滞納中の家賃と光熱費と……住民税も払わなきゃ)
どこまでも現実的な思考に引き戻され、メモ帳アプリに山積みの支払いリストを必死に書き込む。
大金を手にしたとはいえ、生活基盤はまだ脆く不安定だ。
けれど「お金がない」という息苦しい不安が少し遠のいたのも確かだった。
ふと、昨日の異様な出来事を思い出す。
(あの『魔石』って本当に凄い価値があるんだな。あの洞窟――ダンジョンって呼んでたか。あそこにゴロゴロ落ちてるってことは……俺、とんでもない金鉱脈を見つけちゃったのか?)
脳裏に浮かぶのは、赤黒い『冥府の黒曜石』。
そして普段冷静な氷川英玲奈が、呪われた遺物でも見たかのように顔をこわばらせていた光景。
彼女の声は明らかに震えていた。
(普通に拾って持って帰ってきたけど……俺、なんで平気だったんだろう。ゴブリンとかいう連中も一発も当たらなかったし。全部ひらりとかわせたし)
彼の思考に、初めて小さな疑念の種が芽生える。
あのときの妙な落ち着き。
危険なはずの異空間で感じた、根拠のない「大丈夫」という確信。
まるで何かに守られているかのような……。
(……俺、もしかして、普通じゃないのか? 何か自分でも気づいていない特別な力とか持ってたり……するのか……?)
思わず自分の掌を見下ろす。
そこにはごく普通の会社員の手があるだけだ。
陽は自分の手を見つめながら小さく首を振った。
(……いやいや、考えすぎだ! 馬鹿げてる!)
自分が「特別」だなんて非現実的なことがあるわけがない。
安っぽいラノベの主人公だけの話だ。
俺はただのモブキャラAに過ぎない。
(きっと偶然運が良かっただけだよな。俺が特別なわけない。普通がいいんだ、俺は普通でいたいんだ)
その「普通」でいようとする必死な気持ちが胸を締め付ける。
注目されるのは心底ごめんだった。
騒がれたり異端視されることは何よりも面倒で怖い。
平凡な日々を守るためなら「異常」や「特別」なんて考えないに限る。
(そうだ、深く考えない方がいい。とにかく今日はお金がたくさん入った。それだけで十分すぎる)
思考を強制的に切り替え、陽はスマホを乱暴にポケットにしまった。
そして古びた財布を取り出し、今日の昼食をどうするか真剣に考え始める。
それが彼にとっての現実逃避だった。
(いつもはワンコイン弁当かカップ麺だけど……今日くらいは贅沢してもバチは当たらないよな)
思い浮かべたのは会社近くの、少しお洒落でいつも女性客で賑わっているカフェ。
日当たりの良い店内、ちょっとお高めの美味しそうなパスタランチ――いつもなら躊躇し諦める価格帯だが、今日の俺は違う。
(パスタランチ、サラダとドリンク付きで1500円。……うん、今日の俺なら余裕だ! デザートもつけちゃえるかも!)
財布の中身は現金こそ変わらないが、不思議と財布そのものの重みが昨日とは全く違って感じられた。
自分のステータスがランクアップしたような妙な浮き立つ感覚。
まさに“選ばれし勝ち組”の輝かしい気分だった。
(これが……大金を持つってことか……。世界が違って見える……!)
陽は静かに席を立ち、同僚の「いつものコンビニ弁当」組に内心で優越感を抱きつつ軽く会釈し、その輪を抜け出した。
財布の重み(という錯覚)と銀行口座の残高(という現実)が、彼の猫背気味だった背筋をわずかに伸ばしていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
陽はいつもの薄暗いコンビニ弁当の輪から抜け出し、以前から気になっていた小洒落たカフェへ足を運んだ。
心なしか足取りも軽い。
ガラス張りの店内は陽光が降り注ぎ明るく開放的で、洗練された雰囲気の女性客が目立つ。
少し気後れしながらも窓際の席に着いた。
まるで異世界に迷い込んだようだ。
メニューを開き「本日のおすすめ豪華パスタランチ、シェフの気まぐれスペシャル」を注文。
さらに普段なら頼まない食後のデザートセットも勢いで追加する。
今日は無礼講だ。
(たまにはこういう贅沢もいいよな……。俺だって頑張ってるんだから)
自分に都合のいい言い訳をしつつ陽はどこか嬉しそうだった。
やがて運ばれてきた料理は盛り付けも華やかで見た目からして美味しそうだ。
新鮮な有機野菜のサラダ、芳醇な香りのコーヒー、宝石のようなティラミス。
彼はそれらを一口ずつ丁寧に感動しながら味わう。
(……うまい。うますぎる。こんなちゃんとした人間らしい食事、一体いつ以来だろうか……)
いや、もしかしたらこんなに心の底から「美味しい」と感じた食事は人生初かもしれない――そう思い陽は頬を緩めた。
これまでの食生活がいかに貧しく殺伐としていたかを思い知らされる。
そして同時に金銭的な余裕が人の心にどれほどのゆとりと幸福感を与えるかも実感した。
お金は偉大だ。
(やっぱりお金って……すごいんだな……。全てを解決してくれる魔法のアイテムだ……)
そう考えた瞬間、脳裏にキラキラ輝く『魔石』が浮かんだ。
昨日、氷川英玲奈から聞かされた「特級」「高純度」「超危険性」――物騒で魅力的な単語の数々。
(あれ本当に凄い価値があったんだな……。あんなお宝みたいなものがダンジョンにゴロゴロ落ちてるなんて……宝の山じゃないか)
だが同時に赤黒い『冥府の黒曜石』のことも思い出す。
氷川英玲奈の普段の冷静さからは想像もつかない険しい表情。
隠しきれない驚きと明確な警戒が入り混じった尋常ではない声色。
あれは明らかに「ただの綺麗な石ころ」に向けられた反応ではなかった。
彼女は本気で怯えていたように見えた。
(それにしても俺……あんな見るからにヤバそうなものを普通に素手で拾って平気で持って帰ってこられたよな……?)
自分だけが妙に無傷で何の影響も受けずにいられた事実に胸の奥が小さくざわつく。
他の誰かなら危険だったかもしれない異常な環境で、なぜか自分だけは「平気」だった。
それは本当にただの偶然か。
それとも――何か自分でも気づいていない特別な理由があるのか。
(……俺ってやっぱりどこか変なのか? 普通じゃないのか……?)
陽はティラミスを一口頬張りながらも頭の片隅に拭いきれない小さな違和感の棘が残っていた。
他の誰かならあのダンジョンで無事に戻れたとは限らない。
ゴブリンの襲撃だってあった。
けれど自分は不思議と落ち着いていて危機感も驚くほど薄かった。
それどころかなぜかあの場所に“居心地の良さ”のようなものすら感じていた。
まるで故郷に帰ってきたかのような……。
(でも……もし万が一俺だけが“特別”だったとしたら……。そんな馬鹿な……)
その考えが頭に浮かんだ瞬間、陽は思わず身震いした。
“特別”であることはすなわち周囲から注目されることだ。
普通じゃなくなることだ。
その他大勢の名もなき一般市民でいられなくなることだ。
人並みに働き疲れ誰にも気づかれずひっそりと一日を終える――それが陽にとってのささやかな理想だった。
(……いやいや考えすぎだって。悪い夢でも見てるんだ。たまたま運が良かっただけだろ? 俺は凡人だ)
彼は自分に強く言い聞かせるように激しく頭を振り無理やり小さく笑った。
認めたくない。
思考を強制的に打ち切るように再びティラミスにスプーンを突き刺す。
とろける甘さが口いっぱいに広がりささくれ立っていた思考が和らいでいく。
やはり甘いものは正義だ。
(うん、これだよこれ。深く考えすぎても仕方ない)
(とりあえず今は目の前の贅沢な昼飯を楽しもう。それが一番だ)
それが彼の処世術だった。
深く考えず刹那的な現実を優先する。
臨時収入のおかげで久しぶりに心にゆとりができた。
それでいいのだ。
◇ ◇ ◇
一方その頃『危機管理機構』本部では、氷川英玲奈が送信した緊急報告書が瞬く間に関係部署の最高幹部たちの間を駆け巡っていた。
「S級相当の潜在的危険性」「冥府の黒曜石、複数個確認」「ダンジョン感応能力の保有の可能性」――衝撃的なキーワードの一つひとつが百戦錬磨の関係者たちの警戒心を最大レベルまで煽るには十分すぎた。
組織全体が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。
英玲奈の執務端末に間髪を入れず本部からの返信が届く。
短くしかし鋼のような重みのある一文。
「報告受理。事態を最重要視し至急緊急対策会議を招集。総員第一級戦闘配備。追って詳細な指示を待て」
あまりにも緊迫した文面を見つめ英玲奈はふぅと深く重い息を吐いた。
報告が正式に受理されたことに安堵する反面、これから始まるであろう想像を絶する膨大な調整と各部署との連携、そして何よりもあの“規格外の男”との接触にすでに激しい頭痛がしそうだった。
椎名陽というあまりにも“未知数”な存在に組織としてそして彼女個人としてどう向き合っていくか――それは彼女に課された新たなそしておそらくは最も困難な戦いの始まりを意味していた。
彼女の運命もまた大きく動き出そうとしていた。
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