第15話:呼ばれる者、規格外の歩行者
電車の窓に映る自分の顔が、なんとなくいつもより明るく見えた。
椎名陽は、座席に深く腰を下ろしながら、スマートフォンの電卓アプリを開いていた。
何度目かの計算。魔石の買取額、振り込まれる予定の金額、その税引き後のざっくりとした残額。
そして、借金リストを横に並べて――にやり。
(……奨学金、繰り上げ返済ワンチャン。リボ地獄、完全終了。あの憎き水道局からの催促も、もう来ない……!)
指先で“✔”を入れるたびに、心の重りがひとつずつ消えていく感覚。
昨日まで、自分の人生を押し潰していた数字たちが、今日は妙に頼もしく見える。
(俺……いま、勝ってるぞ……!)
ニヤけそうになる口元を押さえつつ、スマホを閉じる。
窓の外には、夕暮れの都会が流れていた。
遠ざかるビル群と、人の波と、誰も知らない“異界”の入口。
(それにしても……)
ふと、陽の思考が少しだけ真面目な方向へと逸れる。
(今日も“あの場所”に行ったの、なんでだったんだろうな……)
気づけば足が向いていた。
地図で見れば遠回りだったはずなのに、不思議と自然に“あの路地”を選んでいた。
朝の頭はぼんやりしていたけれど、完全に夢というわけでもない。
あの時の静けさ。空気の感触。魔石の光と、パンの香り――
現実味があるようで、なさすぎる。
「……やっぱ、変だよな」
小さくつぶやいて、手のひらを開いた。
もうそこに魔石はない。だが、指先にあの“ぬるり”とした感触が微かに残っている気がする。
(また行くんだろうな。きっと、また……)
不思議と、そう思っていた。
理由は分からない。けれど、身体の奥がうっすらと“呼ばれている”ような――
そんな感覚が、かすかに息をしている。
(呼ばれてる、か。ははっ……厨二病かよ)
思わず苦笑し、頭をかく。
けれど、電車のガタンという音の向こうで、その言葉は不意に現実感を持って蘇ってきた。
――呼ばれている。
何かが、自分を“あそこへ”導いている。
それは危険の香りではなく、どこか懐かしい温度を持っていた。
(……でも、まあ。行って何か拾えば金になるし。悪くない、よな?)
思考の末尾は、いつもと変わらない楽観で締められる。
“現金になる”――それがすべての判断基準。
非現実のような異界の入り口も、謎に満ちた魔石も、彼にとっては日常の補助線でしかなかった。
ただ一つ、胸の奥に残ったざらついた違和感。
それもすぐに、「まあいっか」と雑な笑顔で包み込まれる。
陽は、次の駅のアナウンスを聞きながら立ち上がると、ひと息ついて小さく呟いた。
「……“あの場所”って、なんか落ち着くんだよな。不思議だけど」
その言葉を、誰も聞いてはいなかった。
◇ ◇ ◇
夜、オフィスには静寂が漂っていた。
業務終了後の自動消灯モードが作動し、照明の明るさがやや落とされる。
モニターの明滅だけが、室内の空気をかろうじて“現実”に留めていた。
英玲奈は椅子に背を預け、目を閉じるでもなく、遠くを見ていた。
報告書は送信済み。処理も完了。
やるべきことはすべて済ませたはずだった。
けれど――心のどこかが、妙なざわめきを止めてくれない。
原因は分かっていた。
(……呼ばれてる気がするんですよね)
それは、椎名陽が何気なく言った一言。
笑いながら、冗談のように――けれど、あまりに自然に口をついて出た言葉。
その響きが、英玲奈の中でずっと引っかかっていた。
(“呼ばれている”……この言葉、過去にも……)
指先が無意識に端末を操作する。
機構内部の高機密データベースへアクセス。
検索ワードは――
「異常誘導感覚」
「ダンジョン誘引現象」
「高次知覚連動型ケース」
「感応/精神干渉」
画面に赤字がいくつも並ぶ。閲覧制限、承認済み封印解除、要責任者署名――
だが、英玲奈には権限があった。
慎重に閲覧リストを開く。数は少ない。件数にして、わずかに五例。
そのほとんどは旧データベース。事件番号すら不鮮明で、記録者の名も途中で伏せられている。
一つひとつを開くたび、英玲奈の目元から静かに色が消えていく。
──感応型接触事例No.2:接触後、精神崩壊。回収時は意味不明な言語を繰り返していた。
──事例No.3:夢に“扉”が現れ、自ら進んだと語る。後に自殺。遺書には「彼らに導かれた」と記載。
──事例No.4:一度目の接触以降、定期的に同じ空間に引き戻される感覚を訴え、最終的に消失。
(陽は……違う)
同じように“呼ばれた”と語りながら、彼は発狂せず、自傷せず、消失もしていない。
むしろ、軽口を叩いて、魔石を笑顔で提出してくる。
無傷で、無害に、日常の延長として――あの空間を受け入れている。
(この男……“共鳴”している……?)
単なる感知や影響ではない。
陽自身が、ダンジョンと“何か”を介して繋がっている。
そう考えると、あの異常な魔石の質、遭遇率、無傷の帰還、すべてに説明がつく。
彼は“選ばれた”わけではない。
彼は“迎えられている”。
それは、観測者でも適応者でもない、“媒介者”の兆候だった。
英玲奈は深く息を吐くと、再び端末のログを開いた。
情報はまだ断片だ。けれど、確かに輪郭を持ち始めている。
(この男は、境界線を歩いている)
日常と非日常のあいだを。
人の理と、異界の理のはざまを。
――それは、世界にとっての“転換点”そのものかもしれない。
閲覧を終えた機密ファイルのウィンドウが、自動で閉じられていく。
英玲奈は沈黙のまま、モニターに映る空白のログ一覧を見つめていた。
冷房の風が、肩を撫でる。
だが、肌寒さよりも先に、背中に広がるのは理解の輪郭だった。
(“呼ばれる”――それは、単なる直感ではない)
脳内に浮かび上がった仮説は、まだ粗削りだ。
だが、その破片たちは徐々にひとつの像を結び始めていた。
ダンジョン――異空間は、ただの“自然災害”ではない。
自律性を持ち、構造を維持し、時に変化すら見せる。
まるで、ある種の“知性”を内包した領域のように。
(仮に、ダンジョンが“知覚”を持っているとしたら?)
それは観測者として、英玲奈が心の奥底で長く否定してきた考えだった。
学術的にも公的にも、それはオカルトの域に置かれていた。
だが――陽という存在が、その否定を揺さぶっていた。
(ダンジョンが“誰か”を選び、“迎え入れ”“与える”という構造……)
彼の無傷の帰還。圧倒的な魔石の質。明確な誘引感覚。
そして、何より。
(……彼自身に、それを“異常”と感じる自覚がない)
英玲奈は端末に新規ノートを開き、思考のメモを打ち始めた。
・接触者の精神構造 → 安定性異常。通常個体では暴走や拒絶反応が起きる
・陽の場合 → 拒絶反応なし。むしろ、親和性を示す
・仮説名:共鳴体(シンクロタイプ)
→ 異界と波長的に共鳴し、侵食・汚染なしに出入り可能
→ その特異性は生得的か、あるいは“後天的選別”か不明
情報はまだ不足している。だが、もはや陽をただの“異常な一般人”として分類するには無理がある。
(この男は、異界との“媒介者”だ)
空間のひずみを歩き、理解もせぬままに“構造の奥”へ踏み込む。
その足跡の先に、何があるのか――誰にもわからない。
けれどひとつだけ、確信できることがある。
(このまま放置すれば、いずれ“接続”が完成する)
そして、陽の中に何かが芽吹く。
異界が彼を通じて、こちら側へ“形”を持ち始める――そんな、ぞっとする未来。
英玲奈は、頭を軽く振った。
違う。これは恐怖だけではない。
もし彼が本当に“媒介”として成立するならば――それは逆に、人類にとっての“扉”にもなり得る。
未知を暴く鍵。
踏み込めなかった領域への案内人。
災厄の象徴であるダンジョンを、理解の対象に変える存在。
だが同時に、それは災厄そのものにもなりうる。
(……いずれにせよ、見極めなければならない)
英玲奈は静かに立ち上がり、再度報告端末の電源を入れた。
端末に再び灯がともる。
氷川英玲奈は、表題未設定の報告書テンプレートを開き、キーボードに指を置いた。
すでに構想は固まっている。
問題は、どこまで記載し、どこまで“ぼかすか”。
過去の失敗――真実をそのまま記せば、却下される。
逆に警鐘を鳴らしすぎれば、情報封鎖が先に来る。
英玲奈は自らの言葉を、あくまで“中立的に”、だが“最大限に警告を含ませて”記していく。
【件名】感応型特異個体に関する再評価報告(中間整理)
【対象】椎名陽(仮分類:共鳴体/シンクロタイプ)
【状態】当該個体は明確な自覚・意識的な意思を伴わず、複数回にわたり異空間へのアクセスおよび資源の持ち帰りを実行。
【特記】感知型異界誘引現象との一致が複数項目にて認められ、既存データベース内の旧事例群と類似傾向を示す。
タイプする手が止まることはない。
すでに彼女の中では、これは“報告”ではなく、“宣言”だった。
【仮説】当該個体は、異空間と波長共鳴する特異構造を有する可能性が高い。
その結果、空間からの選別的誘導・迎え入れ・資源授受など、従来の侵入者とは異なる“対応”を受けていると推察される。
そして、最後に。
報告書にタイトルをつける時間が来た。
英玲奈は迷いなく、仮称を入力する。
【コードネーム】『ウォーカー』(仮)
意味は単純だ。
――歩く者。
だがそれは、“地上を”ではない。
“この世界と、向こう側の狭間を”歩く者。
彼はまだ、自らがどこを歩いているのかを知らない。
その先に何があるのかも、理解していない。
だが、歩いている。確かに、無意識のまま、境界を。
英玲奈は報告書の末尾に、静かに言葉を添えた。
「これは警戒ではなく、理解の始まりである。
当該個体の観察・記録を通じ、ダンジョンそのものの知性/構造への手がかりを得る可能性がある」
「“
それは、宣戦布告にも、祈りにも似た一文だった。
画面右下の「草稿保存」ボタンが光る。
その光をしばらく見つめたあと――英玲奈は、そっとウィンドウを閉じた。
この瞬間、“ただの奇妙な一般人”だった椎名陽は、正式に機構の記録に“特異個体”として刻まれた。
コードネーム、『ウォーカー』。
この名前が、いずれどれほどの意味を持つか――まだ、誰も知らない。
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