第2章:受付嬢は見た! 謎の男と光る石
第13話:再訪者と、受付嬢の胸騒ぎ
日本異空間調査及び危機管理機構――通称『
関東支部第七管轄エリアの臨時拠点は、都心の片隅にある老朽化した雑居ビルの上層階に、ひっそりとその姿を隠していた。
一見すれば、ありふれた中小企業のオフィス。入り口に掲げられた「株式会社ワールド・コネクト・ソリューションズ」というプレートが、注意深い目を逸らすための偽装だった。
だが、その防音扉の奥――認証装置をいくつも通過した先に広がるのは、最新鋭の観測装置と多重セキュリティに囲まれた、異常の最前線だった。
壁には都内各地の詳細な地図。モニターにはリアルタイムの異空間干渉ログ。天井には魔力検知用のセンサーバンクが静かに起動を続けている。
そして、その中央で静かに指示を出す一人の女性の姿があった。
氷川英玲奈。
危機管理機構内でも屈指の観測官であり、データ分析のエキスパート。
冷静、精密、そして妥協を許さぬ判断力――彼女は、かつて横浜赤霧事件の被災現場を直接経験していた。
「……杉並ダンジョン、第四階層でオークの出現数が指数以上。……第3部隊を回して。抗魔弾の再確認も」
端末に指を滑らせながら、次の警報へ視線を走らせる。
「多摩川河川敷、歪曲反応微弱。調査チームは展開済み……。レベル2警戒、避難経路はC-17ルートを優先。近隣の高齢者施設、リストアップして」
息を吐く暇もない。だが、それが“日常”だった。
そんな中、英玲奈の視線がふとタブレットの一枚に止まる。
そこに記されたのは、前日提出された簡易報告書。
――報告者:椎名陽。
――魔石提出数:二十七。
――状態:無傷で自力帰還。
――職業:一般企業勤務、非戦闘員。
「椎名陽……」
英玲奈は微かに眉をひそめた。
この男の報告書を読むたびに、常識の歯車が微かに軋む感覚に襲われる。
(無傷で帰還。しかも、あの量と質。偶然……で片付けていいのかしら)
当初は見過ごせるレベルの異常と考えていた。だが、脳裏に残るのは報告書に記された奇妙な一節だった。
――危険という概念が欠落しているかのように、落ち着き払った態度。
――敵対存在を前にしても、無反応。
(極限環境への耐性? あるいは、過去に精神汚染を受けている?)
いや、違う。彼は“正常”なのだ。ただし、常人の定義から逸脱した“別の安定”にある。
(……無自覚さ。最も厄介な性質の一つ)
彼が意図して危険に飛び込んでいるのなら、まだ制御の余地がある。だが、無意識に常識を飛び越える者――それは制御不能な“特異点”となり得る。
英玲奈は、深く短く息を吐いた。
今は目の前の事案に集中する。だが、心のどこかに、確かな“警告音”が鳴り始めていた。
このままでは済まない。
椎名陽――あの男は、静かに、だが確実に“何か”を引き寄せている。
◇ ◇ ◇
昼下がりの陽光に照らされた雑居ビルの前で、椎名陽は足を止めていた。
見上げた先には、見慣れない企業名が記されたプレート。
「株式会社ワールド・コネクト・ソリューションズ」
昨日と同じ。だが、その実態を知ってなお、なおさら現実味が薄い。
「……やっぱり、変な名前だよな」
そう小さく呟き、ポケットに手を差し入れる。
指先に触れるのは、硬質で冷たい感触――魔石。昨日の“あれ”と同じように、今日もまた、拾ってしまったのだ。
いや、正確には“手元にあった”というべきか。
あのダンジョンは、気がつけば、そこに在った。
会社へ向かう途中、ふと足が勝手に動いていた。あの黒く歪んだ入口の前に、自然と立っていた。
(……夢みたいだったけど、パン、美味かったしな……)
現実か幻かの境界が曖昧なまま、しかし魔石だけは確かに“ここ”にある。
「ま、またお金になったらラッキーだし。奨学金、ちょっとでも返せるなら――」
ぼやくように言ってから、無言で自動ドアをくぐる。
無人の受付台の奥には、やはり彼女がいた。
氷川英玲奈。
涼やかな顔立ちに、隙のない佇まい。
昨日と寸分違わぬ姿勢で、彼女は陽を迎える。だが、瞳の奥に宿る“光”は、確かに変わっていた。
冷たいようでいて、異様な熱を孕んだ視線。
まるで、対象の奥深くにある何かを覗き込もうとする、観察者の眼差し。
「いらっしゃいませ、椎名様。……やはり、お越しになると思っておりました」
落ち着いた声。その言葉に、陽は少し目を丸くした。
「え、もう予想してたんですか?」
「ええ、いくつかの想定パターンのひとつとして」
「うわ……なんか、すごいっすね。予知能力とかあるんですか、氷川さんって」
軽口を叩きながら、陽は持っていたビジネスバッグをカウンターに置いた。
「えっと、昨日と同じ感じで。“石ころ”、拾ったんで……これ、また見てもらってもいいですか?」
英玲奈の目が、静かにバッグへと向けられる。
その中に見えたのは――昨日よりも大ぶりで、明らかに輝きが強い複数の魔石。
紅、蒼、翠、そして妖しく鈍い金属色。数も質も、前日を凌駕している。
英玲奈は無表情を崩さず、しかし内心では、警鐘がさらに高く鳴り響いていた。
(……やはり。この男は、“引き寄せている”。偶然の域は、もうとっくに超えている)
再現性。意図せぬ成果。そして、無傷の帰還。
これは、“事件”ではない。“現象”だ。
「はい。内容を確認させていただきます。少々、お時間を頂戴いたしますので、受付のソファでお待ちください」
「あ、ありがとうございますー。昨日みたいに、また鑑定ってやつですか?」
「……はい。規定に則り、厳重に取り扱わせていただきます」
英玲奈はカウンター越しにバッグを受け取り、そのままバックヤードへと向かう。
陽はそれを見送ってから、ソファに腰を下ろした。
どこか落ち着いた様子でスマートフォンを取り出し、通知欄を眺めながら独り言のように呟く。
「そういや、あの洞窟……入口、ちょっと分かりにくい場所だったけど、今日もちゃんと開いてたよな。あれって、ずっとあんな感じなんだろうか……」
思考は、ぼんやりとしたまま、深くは掘り下げられない。
ただ彼の“再訪”という事実だけが、英玲奈の内側に、決定的な“境界線の崩壊”を告げていた。
◇ ◇ ◇
バックヤードの静謐な空間に、バッグのファスナーがゆっくりと開かれる音が響く。
英玲奈は無言のまま、カウンター越しに預かったビジネスバッグの中を確認した。
――光が、漏れていた。
そこに収められていたのは、昨日のものと同じ種類……だが明らかに“質”が違う魔石たち。
発する光はより深く、揺らぎはより穏やかに、だが確実に空気を震わせている。
(蒼玉、紅蓮、翠風……どれも高濃度の反応。しかも、この規則的な結晶構造……)
まるで、意図的に選別されたサンプルのようだった。
ランダムに拾ったとするには、不自然すぎる。
だが陽は、あくまでそれを“偶然”“運”と認識している。本人の言動からは、悪意も企図も見えない。
それが、かえって不気味だった。
(再現性、非戦闘者、無傷、そして……無自覚)
英玲奈はバッグを静かに閉じると、タブレットに向き直り、内部記録用のログ入力を開始した。
【椎名陽:提出物件確認】
・魔石総数:18個
・波動強度:前回比+14〜27%
・注記:現場報告なし、自主持ち込み、入場経路不明
冷徹に、正確に、そして迅速に。
だが、思考の奥底では、別の仮説が形を成し始めていた。
(彼の体質そのものが、“魔石”を引き寄せている……? いや、それだけじゃない)
(彼が接触することで、“魔石の質そのもの”が変化している可能性もある……?)
荒唐無稽な仮説。
だが、現実が理論を超えることは、かつて横浜で――あの惨劇で、痛いほど学ばされた。
(――忘れてはだめ。あのときも、常識に縛られて対応が遅れた)
指先に力がこもる。
その瞬間、頭の中で警鐘がひとつ、確かに鳴った。
これは、“管理対象”だ。
好奇心や観察の域では済まされない。
椎名陽という存在が、意図せずに危機を招く危険因子である可能性は、すでに排除できない。
にもかかわらず、彼自身はそれをまるで理解していない。
笑顔で石を渡し、平然と「換金できますか」と問う男。
戦略物資にすらなり得る超高濃度魔力体を、“石ころ”と呼ぶ男。
(……情報不足の一般人。だが、だからこそ、放置すればいずれ制御不能の事態を招く)
(この男の存在は、もはや組織にとっての“最大の不確定要素”)
英玲奈は無言でカウンターに戻り、受付台に仮の鑑定札を置いた。
ソファでは陽がスマホをいじりながら、何やらのんきにアプリの通知でも眺めているようだった。
その姿に、ほんのわずかに眉が動いた。
(……無邪気、なのか。それとも、“無敵”の皮を被った“異質”なのか)
答えは、まだ出ない。
だが彼の観察と記録、そして組織内での取り扱いについては――今すぐ、対応を始めなければならない。
◇ ◇ ◇
ソファの上、椎名陽は脚を組み直しながら、手にしたスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
SNSはいつものように無意味な広告と情報で埋め尽くされ、メールボックスには仕事関係の未読が山のように溜まっている。
(……あーあ、現実が戻ってきたって感じだな)
つい数時間前までいた“あの場所”――薄暗く、空気が澄んでいて、なぜか心が落ち着いた不思議な空間。
あそこには、恐怖よりも静寂があった。
現実から切り離されたような、心地よい“隙間”だった。
(……でもパンは美味かったし、石は拾えたし、やっぱり夢じゃなかったんだよな)
ふとバッグに触れた指先に、微かに残る硬質な冷たさを思い出す。
この数日、非現実が当たり前になってきていることに、陽自身はまだ気づいていなかった。
彼の感覚は、すでに“日常”の境界を曖昧に侵食され始めていた。
(っていうか、またあの入口に行くことになるのかな……。なんか、気づいたら立ってるんだよな。変だよな、うん)
不思議な感覚。
道を間違えたわけでも、意識して選んだわけでもない。
なのに“あの場所”へ、自然と足が向いてしまう。
(ま、運が良かったってことで)
自分に都合よく理由をつけて、思考を打ち切る。
それが、長年の社畜生活で身についた陽の“処世術”だった。
一方その頃、受付カウンターの奥――
英玲奈は静かにバッグを置き、冷却保存ユニットの稼働音を確認しながら、タブレットの画面に視線を落としていた。
すでに初期波形分析は始まっている。
どの魔石も異常値に片足を突っ込み、通常観測枠では分類できない“逸脱”の兆候を示していた。
(……特異性は、もはや疑うまでもない)
英玲奈は小さく、だが確かに呼吸を整える。
最優先は、彼の“再訪”に対する解析と、異常行動の記録。
次いで、魔石の正確な鑑定と、組織内での扱いに関する報告ルートの整備。
すでに彼は、機構にとっての“優先監視対象”に片足を突っ込んでいる。
ただの一般人ではない。
だが、敵性とも言い切れない。
それが、余計に厄介だった。
(……あの無自覚さ。あれが最も恐ろしい)
知識のない力は、単なる脅威だ。
しかし――無知ゆえに笑顔で危険地帯を歩いてしまう存在は、より深く、より根源的に“災厄”へと近づいてしまう。
氷川英玲奈は、無意識のうちに、掌を握りしめていた。
ソファでスマホをいじっている男は、その視線にも気づかないまま、ぼそりとつぶやいた。
「……うん。今日の運勢、大吉ってことで。たぶん」
英玲奈の眉が、ほんの僅かに動いた。
その一言が、何よりも現実味のない“終末の予兆”のように響いた。
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