第9話:出口はどっちだ?(無自覚最短ルート)

 背後から感じる複数の視線と、得体の知れない気配。


 陽は、もはや「楽しい散歩」などという言葉が霞むほどの、深淵を覗き込むような状況にいた。


 ポケットの中の光る石ころ。

 その重みが、今はただ不気味な存在感を放っている。

 捨て去りたい衝動と、なぜか手放せない不思議な引力。


(早く出たい……とにかく早く、この異空間から……!)

(二度と足を踏み入れるものか、こんな呪われた迷宮には!)


 先ほどまでの僅かな好奇心は、遥か彼方へと吹き飛んでいた。

 陽は早足で、洞窟の通路を進んでいく。


 しかし、どこまで行っても景色はほとんど変わらない。

 ごつごつとした岩肌。

 ぼんやりと光る、この世のものならぬ燐光を放つ苔。

 そして、時折現れる分岐路。

 まるで、古代の迷宮か、あるいは悪魔の棲み処か。

 どこまでも続いているように思えた。


(どっちへ進めば……? これは、まさしく迷宮……)

(誰が、何のためにこんなものを……。悪意に満ちた罠か……)


 陽は完全に方向感覚を失っていた。

 来た道を戻ろうにも、どこで曲がったのか、どの道を通ったのか。

 記憶は、深い霧に閉ざされたように曖昧だ。

 先ほどまで鮮明だったはずの光景も、今は幻のようにぼやけている。


 頼みの綱のスマートフォン。

 そのGPSはもちろん圏外のまま。

 画面には「検索中」の文字が、冷ややかに現実を突きつける。

 文明の利器も、この魔境では無力だった。


 コンパスなど持っているはずもない。

 現代社会において、地図とスマホなしで異界を彷徨うことの絶望的な困難さ。

 今更ながら、身をもって知らされていた。


(まずい……本当に、まずいかもしれない……)

(水も食料もない。このままでは、魂ごと干涸びてしまう……)


 じわじわと焦りが魂を蝕んでいく。

 喉がカラカラに渇いていることに気づいた。

 まるで、生命の源泉が枯渇していくようだ。


 視線は依然として感じ続けている。

 肌にまとわりつくような、粘稠な、悪意に満ちた視線。

 まるで、見えざる何者かに魂を品定めされているような。


 それどころか、先ほどよりも近づいてきているような気さえする。

 息遣いすら聞こえてきそうなほどに。


 カサリ。


 背後で微かな物音がしたような気がして、陽は思わず駆け出した。

 根源的な恐怖に駆られて、ただひたすらに。

 まるで、闇より生まれし何かが、その爪牙を剥かんとしているかのように!


「はぁ……はぁ……っ! ぜぇ……っ!」


 どれほどの時間、どれほどの距離を走ったのか。

 もはや曖昧だった。

 ただ、背後から迫る得体の知れない恐怖だけが、陽の足を前に進ませていた。

 肺が灼けるように痛い。

 心臓が、破滅の鼓動のように激しく脈打っている。


 やがて陽は、少し開けた場所に出た。

 そこは、三つの道が交わる分岐点だった。

 右も左も、そして正面も、同じような薄暗い通路が続いているように見える。

 絶望的なほどに代わり映えのしない風景。

 ここが、運命の分かれ道だというのか。


(ど、どっちだ……? 全く分からない……)

(どれを選んでも、結局は破滅へ続く道なのでは……?)


 陽は肩で息をしながら、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。

 途方に暮れた、とはまさにこのことだろう。


 どの道を選んでも、さらに深淵へと迷い込むだけのような気がする。

 もしかしたら、永遠にここから出られないのではないか。

 この薄暗い、湿った洞窟の中で、誰にも知られずに朽ち果てていくのではないか。

 そして、いつか、名もなき亡骸となるのだろうか。


 そんな絶望的な考えが頭をよぎり、全身から力が抜けていくのを感じた。


(落ち着け……落ち着くんだ、俺……!)

(恐慌に陥れば終わりだ。こういう時は、冷静に状況を判断しなくては……)

(だが、どうやって……? 何か、導きはないのか……?)


 陽は深呼吸を繰り返し、無理やり思考をクリアにしようと試みる。

 しかし、極度の疲労と焦り。

 そして、得体の知れない恐怖が、彼の判断力を著しく低下させていた。

 論理的な思考など、もはや風前の灯火。


(そうだ、こういう時は……直感に従う、というではないか……)

(だが、俺の直感など、当てになるのだろうか……?)

(これまで、それで道を切り開けたことなど……)


 普段の陽なら、そんな不確かなものに頼ろうとはしない。

 彼は基本的に現実主義者だ。

 しかし、今は一縷の望みにすがる思いだった。

 他に頼れるものなど何もないのだから。


 彼は目を閉じ、精神を集中させる。

 耳を澄ます。

 何か、変化はないか。

 微かな風の音、あるいは何かの囁きでも。


 そして、ふっと心に浮かんだ方向。


 それは――


 右の道だった。


(……右だ。なぜか、こちらから……微かに、清浄な空気が流れてくる気がする)

(気のせいかもしれない……それでも、今はこれに賭けるしかない!)

(こっちだ。魂が、そう告げているような……気がする)


 何の確証もない。

 ただの勘だ。だが、今はそれだけが頼りだった。

 その「気のせいかもしれない空気の流れ」が、今の陽にとっては唯一の希望の糸のように思えた。


 彼は意を決し、右の通路へと足を踏み入れた。

 一歩、また一歩と。

 まるで、運命の扉を開くかのように。


 その道は、これまでの道とは少し雰囲気が違っていた。

 壁の発光する苔の数が少なく、より一層薄暗い。

 まるで、聖域へと続く試練の道のようだ。


 しかし、奥へ進むにつれて、先ほど感じた空気の流れが、気のせいではなく、確かに存在することに気づいた。


 そして、その空気は、ひんやりとしている。

 まるで、外の世界の空気に近いような……。

 そう、懐かしい世界の匂いだ!


(もしかして……正解だったのか……!?)

(本当に出口が近いのか……!? 天よ、我を見捨てなかったか!)


 淡い期待を胸に、陽は進んでいく。

 足取りが、先ほどよりも少しだけ軽くなったような気がした。

 まるで、見えざる何かに導かれているかのように。


 すると、前方にかすかな光が見えてきた。

 それは、これまで見てきた苔の妖しい光とは明らかに違う。

 もっと強い、白々とした――親しみのある光だ。


(あれは……蛍光灯の光……!?)

(間違いない、駅の光だ! あの日常の光だ!)


 見慣れた、駅の構内で使われている蛍光灯の光だ。

 陽の足取りが、自然と速くなる。

 ほとんど駆け出すような勢いで。

 悪夢からの帰還だ!


 そして、ついに――。


 彼は、見覚えのある場所に出た。


 そこは、最初にあの古びた木製の扉を見つけた、駅の連絡通路だった。

 周囲には、何事もなかったかのように人々が行き交い、いつもの喧騒が戻ってきている。

 アナウンスの声、電車の発着音、雑多な話し声。

 それらが、やけに大きく、そして魂に染み入るように懐かしく感じられた。

 まるで、奇跡のようだ。


(出られた……のか……? 本当に……?)


 陽は、まるで異次元から帰還したかのような感覚で、呆然と立ち尽くした。


 先ほどまでの静寂と暗闇が嘘のように、そこは文明の光と音で満ち溢れていた。

 人の声が、こんなにも温かく、そして安心感を与えるものだとは、今まで気づかなかった。

 この日常こそが、かけがえのないものだったのだ。


 振り返ると、そこにはもう、あの古びた扉はなかった。

 ただ、いつもの駅の壁があるだけだ。

 広告ポスターが何枚も貼られている。

 扉があったはずの場所には、継ぎ目一つ、傷一つ見当たらない。


 まるで、最初から何もなかったかのように、滑らかな壁面が続いているだけだった。

 あの異世界への通路の痕跡すら、そこには残されていなかった。

 幻だったのだろうか。いや、しかし――。


(一体、なんだったんだ、あれは……)

(白昼夢でも見ていたというのか……? いや、それにしてはあまりにも鮮明すぎた……)

(あの扉は、確かに存在したはずなのに……)


 しかし、ポケットの中には、確かにあの光る石ころのゴツゴツとした感触がある。

 あれは、現実だったのだ。

 ファンタジーは、すぐ隣に息づいていた。


 陽は、極度の疲労と強烈な安堵感。

 そして、説明のつかない畏怖にも似た興奮がないまぜになったような、奇妙な感覚に包まれていた。

 立っているのもやっとだった。

 膝が震えている。


 彼が無意識に選んだ右の道。

 それは、ダンジョンの構造を知る者が見れば、数あるルートの中で唯一、最短で出口へと繋がる「生還の道」だった。

 他の道を選んでいれば、さらに危険な魔物が跋扈する領域や、巧妙な罠が仕掛けられた迷宮へと迷い込み、二度とこの喧騒の中に戻れなかったかもしれない。

 名も知れぬ異形の怪物と対峙することになっていたかもしれないのだ。


【運命の加護】スキル。

 それが見えざる力となって、またしても彼を無自覚のうちに救ったのである。


 だが、そんな大いなる摂理を知る由もない陽は、ただただ「奇跡的に運が良かった」としか思っていなかった。


 そして、自分が感じた「空気の流れ」が正しかったのだと、自身の内に秘められた微かな力の一端を、垣間見たような気がしていた。


(とにかく、帰ろう……)

(もう、今日は何も考えられない……。魂が擦り切れる寸前だ)

(温かい湯に浸かり、安らかな眠りにつこう……)


 彼は、ふらつく足取りで、今度こそ本当に自宅への帰路についた。

 背後から感じていたはずの奇妙な視線も、いつの間にか消え去っていた。

 まるで、何事もなかったかのように。


 ただ、ポケットの中の石ころの重みだけが、先ほどの出来事が現実であったことを、彼に静かに、そして確かな手触りとして告げていた。

 この石は、一体何を意味するのだろうか。

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