第10話:見たことない制服の人
悪夢のような洞窟をなんとか脱出した陽は、ふらつく足取りのまま、ようやく自宅のアパートへとたどり着いた。
玄関のドアを開けた瞬間、まるで操り糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
革靴すら脱ぐことも忘れ、冷たい廊下の上で横たわると、あっという間に意識が深い闇へと沈んでいった。
どれくらい眠っていたのだろうか。
次に目を覚ましたとき、窓の外はすでに白々と夜が明け始めていた。
スマートフォンのアラームよりも前に体が勝手に覚醒していたが、それは決して爽やかな目覚めではなかった。
(……体が……重い。いや、痛い。まるで全身をゴーレムにでも殴られたみたいだ……)
昨日――いや、正確には今朝方にかけての無茶な行動の代償が、容赦なく全身にのしかかっていた。
特に足腰の痛みは深刻で、起き上がるのにも壁を伝わなければならないほどだった。
情けない。
何とか体を起こした陽は、ぼんやりと昨夜の出来事を思い返す。
薄暗い洞窟、妖しく光る苔、そして得体の知れない視線……。
まるで出来の悪いファンタジーゲームか、チープなB級映画のような光景。
本当にあれは現実だったのだろうか。
もしかすると、過労による幻覚か、あるいは奇妙な悪夢でも見ていたのではないか――そんな疑念が、霞む頭をよぎる。
だが、ポケットに手を突っ込んだ瞬間、否応なく“それ”が現実であったことを思い知らされた。
指先に触れる、ゴツゴツとした石の感触。
取り出してみると、そこには赤、青、緑といった、いくつもの複雑な色を帯びた石たちが、朝の淡い光を受けて静かに、しかし確かな存在感をもって鈍く輝いていた。
夢ではない。
幻想でもない。
間違いなく、現実だったのだ。
(……一体、なんなんだ、この石は。そして、あの場所は……)
疑問は尽きない。
だが、それをじっくり考える時間も、心の余裕も、今の陽にはなかった。
何より、今日は平日。
身体がどれほど悲鳴を上げていようとも、会社という組織は容赦してくれない。
どれだけの異常事態を体験しようとも、哀れな会社員に許された猶予など、ほとんど存在しないのだった。
悲しいかな、これが現実。
(……考えている暇なんてない。行かなければ)
全身の悲鳴に耐えながら、陽はなんとか立ち上がった。
重い足取りでバスルームへ向かい、熱めのシャワーを浴びる。
火照る体に冷水が心地よい――はずもなく、むしろ迸る痛みに意識が覚醒した。
身支度を整えながら、ふと机の上に並べた石たちに目をやる。
朝日を受けて鈍く光るその姿は、明らかにこの世界の物とは思えないのに、確かに“今ここにある”。
どこか夢の中の出来事のようだったあの洞窟の記憶と、無慈悲な現実の生活が、あまりにも不自然に繋がっていた。
だが、それを深く考察する余裕はない。
今日は平日。
仕事がある。
定時出勤という、社に仕える者としての戒律が、何よりも優先されるのだ。
(幸い、今日は特に重要な会議もないはず……)
(できるだけ目立たず、定時で帰る。それだけが今日の目標だ)
陽は気合を入れるでもなく、ただ最低限の意識を保って家を出た。
外はすっかり朝の喧騒が始まっていて、自分の体験した“異常”など、この世界には存在しないかのように錯覚させる。
駅へ向かい、いつものように満員電車に揺られる。
人波に押しつぶされながらも、陽の意識は別の場所――昨日の忌まわしい記憶に引き戻されていた。
そして、乗り換えのために通る、あの“連絡通路”。
昨日、古びた扉を見つけた場所。
思わず、陽はその位置に視線を向けてしまう。
だが、そこにはもう何もなかった。
ただの、いつもと変わらない駅の壁。
見慣れた広告ポスターが何枚か貼られていて、異世界の入り口だったとは到底思えない、ありふれた光景。
(……やっぱり、幻だったんじゃないか。いや、でも……)
ポケットに手を入れると、昨日拾った石のひとつが、無言の証拠のようにそこにある。
現実と幻想の境目は、まだ曖昧なままだった。
広告の貼られた壁を見つめたまま、陽は軽くため息を吐いた。
(……不思議なこともあるものだ。まるで狐か何かに化かされた気分だな)
昨日のことは確かに現実だった――そのはずなのに、あまりに日常の風景と馴染まなすぎて、まるで全てが精巧な夢だったようにも思えてくる。
気を取り直して歩き出そうとした、その時だった。
視界の端に、妙な違和感が映り込んだ。
連絡通路の隅、昨日“扉”があった場所の近く――そこに、見慣れない制服の人物が、壁にもたれるようにして立っていた。
(……あれ? 駅員さんじゃないよな。見たことのない制服だ)
陽は立ち止まり、さりげなくその人物に視線を向ける。
女性だ。
年齢は自分と同じか、少し若いかもしれない。
濃紺を基調にしたその制服は、どこか古風な軍装を思わせながらも、優美な装飾が施されている。
胸元には盾と剣を組み合わせたような紋章が繊細な刺繍で施され、細部にまで高度な技術と意匠が凝らされているのが一目で分かった。
(……コスプレ? いや、何かのイベントスタッフか……? にしても、雰囲気が違いすぎる)
陽は自然と観察を続けていた。
その女性の佇まいには、妙な“隙のなさ”があった。
まるで周囲すべてを掌握し、同時にあらゆる不測の事態を警戒しているかのような、静かで鋭い緊張感。
視線は静かだが、油断なくあたりを巡らせている。
その立ち姿だけで、ただ者ではないと直感させる気配が満ちていた。
と、不意に、女性がこちらを見た。
目が合う。
途端に、陽はわずかな居心地の悪さを覚え、思わず視線をそらす。
何か魂の奥底まで見透かされたような、そんな気がした。
足早に通り過ぎようとした瞬間――
「……あの、少々、お待ちいただけますでしょうか」
背後から、鈴を転がすような、それでいて凛とした芯の通った声が響いた。
足が、縫い止められたように止まる。
鼓動が一瞬、大きく跳ねた。
振り返ると、彼女がまっすぐこちらを見つめていた。
その瞳は澄んでいて、吸い込まれそうなほど美しい。
だがその奥には、何かを厳しく見定めるような、冷徹な光が宿っていた。
(……俺に? いや、何かの勧誘とかじゃないよな? まさか職務質問……でもないか)
陽は戸惑いながら、ゆっくりとその場に立ち尽くした。
陽が立ち止まると、女性は迷いのない足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
その動きは静かで、しかしどこか無駄がなく、訓練された者特有の研ぎ澄まされた緊張感を漂わせている。
至近に来たところで、彼女は胸元の紋章に軽く手を添え、丁寧にお辞儀をした。
その所作は洗練されていて、育ちの良さとは異なる、何かしらの“組織の格式”を感じさせるものだった。
「突然のご無礼をお許しください」
静かだが、よく通る声だった。
「わたくし、先日よりこの付近で観測されております“
丁寧な口調でありながら、その一言一言には明確な目的と揺るぎない意志が込められていた。
(……特異……接続現象? なんだその、厨二病が考えたみたいな単語は……)
理解が追いつかず、陽は思わず口を噤む。
彼女はそのまま、淀みなく話を続けた。
「こうした現象は、都内の数カ所でも過去に確認されておりますが、この場所は特に不安定な傾向が強く……。わたくし共は、それを安全に管理し、一般市民の方々への影響を最小限に抑えることを任務としております。ご理解いただけますでしょうか」
陽は頷くことも返事をすることもできなかった。
ただ、耳に飛び込んでくる言葉のすべてが、足元の現実をぐらつかせるように響いていた。
そして、彼女は核心に触れる。
「昨日、あなたがこの場所から入られた“異空間”と、そこから持ち帰られた“発光する鉱石”――わたくし共は、それを“魔石”と呼称しております。その件について、いくつかお伺いしたいことがございます」
その瞬間、陽の背筋に冷たいものが走った。
鼓動が激しく跳ね上がり、喉が一瞬、ひゅっと詰まる。
昨日のあの出来事を、“誰かが知っている”という事実が、抗いようのない現実として突きつけられた。
(……異空間……魔石……やっぱり、あれは……現実だったんだ)
(あの場所も、この石も……そして、この人は最初から全部知っていたというのか……!?)
疑問が疑問を呼び、混乱がさらに濃密な霧となって思考を覆う。
だが、目の前の女性は、すでに全てを承知している者の揺るぎない態度で、陽の返答を静かに待っていた。
日常はもう、完全に終わったのかもしれない。
昨日、あの古びた扉を開けた瞬間から――
そして今、新たな、もっと面倒で、そしておそらくは危険な現実が、音もなく始まりを告げようとしていた。
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