第6話:ゴブリンの困惑「攻撃が当たらない…だと…!?」

 陽が、まるで近所の公園を散歩でもするかのように、のんびりとその場を立ち去った後。


 その場に残された数体の緑色の小人――ゴブリンたちは、呆然と立ち尽くしていた。


 先ほどまでの喧騒が嘘のように、洞窟の一角は不気味なほど静まり返っている。


 ただ、彼らの荒い息遣いと、恐怖のあまりカチカチと鳴る歯の音だけが、微かに岩壁に反響していた。

 それは、まるで死の宣告を待つ囚人のようだった。


「ギャウッ!? ギ、ギギギ……」

(な、なんだ、今の人間は!? 全然、我らの攻撃が……当たら、なかったぞ……!?)


 一際体の大きなリーダー格のゴブリンが、震える声で仲間に問いかける。

 その顔からは、さっきまでの獲物を前にした獰猛な威勢など、影も形も消え失せていた。


 だが、他のゴブリンたちも、ガタガタと全身を震わせながら首を横に振るばかりだった。

 言葉すら、まともに出てこない。


「ギギ……ギャ……グルル……」

(わ、わからん……。我らが誇る棍棒、全て、全て避けられた……まるで、そこにいないかのように……幻術か……?)


「フゴッ! ア、アレは……マボロシ……? それとも、悪夢でも見ているのか……?」

(いや、確かにいた……。だが、攻撃が全く……。我らの力が、通じぬとは……)


 言いかけたゴブリンは、ブルッと全身を震わせ、恐怖に声を詰まらせた。


 彼らが頼りにしていた棍棒は、狩りにも縄張り争いにも、幾度となく勝利をもたらしてきた信頼の武器だ。

 それが、まったく通じなかった。


 あの、ひょろりとした、何の変哲もない人間の男には。


 渾身の力で振るった棍棒は虚しく空を切り、当たる気配すらなかった。

 まるで、霞を掴むかのようだ。


 彼はただそこに、ぼんやりと立っているように見えたのに、まるで実体のない幻のように、あるいは流れる水のように、するりするりと全ての攻撃を避けていったのだ。

 それは、もはや技術云々の話ではない。

 異次元の存在と対峙しているかのようだった。


 そして――その場から、何事もなかったかのように、悠然と立ち去っていったのだ。

 まるで、道端の石ころでも蹴飛ばすかのように、彼らの存在など意にも介さずに。


 リーダー格のゴブリンは、先ほどまで陽が立っていた場所を忌々しげに睨みつけ、ギリギリと歯ぎしりをした。

 屈辱と、それ以上の得体の知れない恐怖が、彼の心を支配していた。


 彼らの縄張りに迷い込んでくる人間は、通常、格好の獲物だ。

 それが、この薄暗いダンジョンでの彼らの生存戦略であり、揺るがぬ掟だった。

 隠れて静かに近づき、不意を突いて棍棒で殴りつけ、無力化してから巣穴へと持ち帰る。


 食料にすることもあれば、身につけている金目の物を奪うこともある。

 それが彼らの日常であり、洞窟で生き延びるための、血と暴力で築き上げられた知恵だった。


 今回も、そうなるはずだった。

 いつものように、簡単な狩りになるはずだった。


 現れた人間は、ひょろりとしていて、屈強そうには見えない。

 まるで、風が吹けば倒れてしまいそうなほど、か弱い印象だった。

 身を守る鎧もなければ、武器らしいものも何一つ持っていない。


 警戒心もなく、こちらに気づいてもまるで逃げる素振りすら見せなかった。

 あまりに無防備で、自分たちの存在を全く意識していないかのようだった。

 それは、獲物としての価値すらないほどの、無力な存在に見えた。


 まさに「カモがネギを背負って、自ら鍋に飛び込んできた」どころの話ではない。

 高級キノコに極上の蜂蜜までぶら下げた、丸々と太ったカモが、自ら丸焼きにされるのを待っているようなものだった。

 これほどの獲物は、滅多にお目にかかれない。


 リーダーは確信を持って合図を出し、仲間とともに一斉に襲いかかった。

 勝利を疑う者など、誰一人としていなかった。


 だが、結果は――最悪だった。

 彼らの矮小な理解を、遥かに超えていた。


 棍棒は一撃も当たらず、虚しく空を切るばかり。

 それどころか、勢い余って仲間同士でぶつかりそうになる場面すらあった。

 無様極まりない。


 その人間は、ただぼんやりと、まるで魂が抜けたように立っているように見えたのに、なぜかこちらの攻撃をすべて、完璧に避けていた。


 無駄な動きも、力みも一切なく、まるで水が流れるように。

 あるいは、捉えどころのない煙のように。

 手応えすらなかった。


 攻撃すればするほど、間抜けなのは自分たちの方なのだと、骨身に沁みて痛感させられていく。

 彼らのプライドは、ズタズタに引き裂かれた。


(こんなことが……ありえるのか……? 我々は、一体何と戦っていたのだ……?)


 リーダーは内心で呻いた。

 まるで、古の伝説に語り継がれる、無敵の英雄と戦っているような――いや、それ以上の、理解の及ばない、異質の存在に触れてしまったような気がした。

 それは、恐怖を通り越して、畏怖に近い感情だった。


 リーダー格のゴブリンは、思い出す。

 あの人間が一度だけ、こちらに視線を向けた瞬間のことを。


 その時、全身の毛が総毛立つような、魂が凍りつくような感覚に襲われた。

 血が逆流し、心臓が止まるかと思った。

 肺が潰れそうになるほどの、圧倒的なプレッシャー。

 棍棒など、握っていることすら忘れるほどの、絶対的な“何か”。


 それは怒りでも、殺意でもなかった。

 そんな生易しいものではない。


 もっと根源的な、抗うことなど到底不可能な「存在の格」の違い。

 自分たちを見ているというより、遥か下にある、取るに足らない虫けらのような存在を、無意識に踏みつける絶対者の目だった。

 慈悲も、容赦もない。


 魔法か?

 いや、呪文の詠唱もなければ、魔力の気配すら微塵も感じられなかった。

 卓越した剣士か?

 それも違う。

 武器を持っていた様子はなく、ただくたびれた奇妙な服を着て、ぼんやりと、まるで世界の終わりでも見ているかのように立っていただけだった。


 だが、視線を感じたその一瞬――彼の中に眠る、野生の本能が、血の叫びとなってこう告げていた。


(これは、敵わない……。絶対に、敵わない……!)


 その異常さは、他の仲間たちにも瞬時に伝わっていたようだった。

 ひとりは腰を抜かし、もうひとりは恐怖のあまり失禁して、地面に無様にしゃがみ込んでいる。

 もはや、戦意など欠片も残っていなかった。


「グ……グルル……ガタガタ……」

(アレは……ヤバい……ヤバいやつだ……。絶対に、怒らせてはいけない……。触れてはならぬ、禁忌の存在だ……)


 仲間たちも、ようやくリーダーの抱いていた、言葉では言い表せない異様な恐怖に気づき始めていた。


 あの人間(のような何か)は、間違いなく自分たちが手を出してはならない、格上の存在だった。

 次元が違うのだ。


 本気を出されたら、棍棒で殴られるどころの話では済まない。

 存在そのものを、“無かったこと”にされる――そんな不気味な想像が、まるで現実のようにリアルな恐怖となって、彼らの胸を締めつける。

 魂ごと消滅させられるかもしれない。


 この場に、一刻たりとも長く留まってはいけない。

 触れてはならない“禁断の何か”に出会ってしまったのだ。

 ここは、もはや死地だ。


(に……逃げろ……!一刻も早く、ここから……!生き延びるのだ……!)


 リーダー格のゴブリンは、かすれた、震える声で仲間たちに指示を出す。


 獲物だの縄張りだのと言っている場合ではなかった。

 生存本能が、全力で逃走を命じている。

 とにかく、あの“理解不能な存在”から、一刻も早く離れなければならない。

 ここはもう、自分たちの安全な場所ではないのだ。


 仲間たちは、まるで天敵に追われる小動物のように、蜘蛛の子を散らすように、各々の巣穴へと慌ただしく駆け戻っていった。

 その背中に、さっきまでの矮小な威勢など微塵も残っていない。

 あるのはただ、得体の知れない、根源的な恐怖だけだった。


 こうして、ゴブリンたちの間には一つの“鉄の戒め”が生まれることとなる。


 ――この洞窟の一角には、絶対に近づいてはならない禁断の領域がある。


 そこには、目を合わせてもいけない、触れてもいけない、名もなき“ヌルリとした虚無の煙の王”が、時折気まぐれに姿を現し、徘徊している――と。


 やがてその存在は、恐怖と畏敬を込めて「ヌケガラ様」と呼ばれ、洞窟の若きゴブリンたちには、決して破ってはならぬ掟として語り継がれることとなる。


 遭遇した時は決して挑発せず、刺激せず、ただ静かに、息を殺してその場をやり過ごすこと。

 それが、この恐るべきダンジョンで生き残るための、唯一無二の手段として、血塗られた伝説となっていくのだった。


 ――そしてそのころ。

 そんな恐怖の神話が、すぐ近くで誕生しつつあることなど露知らず、陽はのんびりと、まるでピクニックでも楽しむかのように洞窟の奥へと足を進めていた。


(さっきの緑色の人たち、なんだったんだろう……。新しいアトラクションのキャストさんかな。だとしたら、ちょっと邪魔しちゃったかもしれないな。でも、なんか妙に怯えてたような……まあ、いっか。俺には関係ないことだし、気にしても仕方ない)


 彼の頭の中は、そんな呑気な、平和極まりない思考でいっぱいだった。


 自分の視線ひとつが、何気ない動きひとつが、どれだけの恐怖を哀れなゴブリンたちに与えたか。


 そして、彼自身が新たな伝説を生み出す、そのきっかけとなったか――そのことに、彼が気づく日は、きっとまだ、遥か遠い未来のことだろう。

 彼の無自覚な脅威は、静かに、しかし確実に異世界へと波紋を広げ始めていた。

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