第36話:英雄なき救済と、ざわめく世界

 都心部で発生した、原因不明の超高エネルギー反応。

 

 そして、それに続く不可解なまでの急速な沈静化。

 この事実は、政府によって厳重な情報統制が敷かれていた。

 

 だが、その隙間を縫うように、現場に居合わせた人々のSNS投稿や、一部メディアによる憶測記事が拡散。情報は瞬く間に日本中へ広がっていった。


 特にSNS上では、


『渋谷駅周辺で空が一瞬揺らいで見えた』

『原因不明の耳鳴りがした』

『ペットが異常に怯えていた』


 など、具体的な“異変の肌触り”を伴う目撃証言が次々と投稿され、否応なく人々の不安を煽った。


 政府は記者会見などで、「大規模な地下インフラの点検作業中に、一時的な計器の異常が観測されたが、すでに問題は解決済みであり、市民生活への影響は一切ない」と繰り返し説明を行った。

 

 だが、その発言に納得する国民は、もはや少数派だった。


 ここ数ヶ月、日本各地では、原因不明の小規模な災害や異常現象が頻発していた。

 

 また、ネット上では以前から、「“S”様」と呼ばれる謎の人物に関する都市伝説がじわじわと拡散。

 

 今回の「都心部厳戒態勢事件」は、それらの要素すべてを一気に繋ぎ合わせてしまった。


『政府は何かを隠している!』

『“S”様は本当にいたんだ!』

『日本は、もう終わりなのか……?』


 SNSや掲示板には、そんな書き込みがあふれかえった。

 

 ついには、「ダンジョン」や「ゲート」といった、かつては一部のオカルト愛好家しか使わなかった言葉までが、一般層にも拡がり、公然と議論されるようになっていった。


 政府が用意した「計器の異常」などという説明では、もはや国民の疑念と不安を抑えきれないのは、明らかだった。


 事態の深刻さは、もはや政府内でも隠しきれなくなりつつあった。

 

 世論が混乱と不信に傾く中、「原因不明の脅威を管理し、国民に正しい情報を提供するための、新たな専門組織が必要だ」という声が、各方面から急速に高まり始めていた。


 それは、これまでの「見て見ぬふり」では、もう通用しないという共通認識が、政治・行政の現場にも広まり始めていた証だった。


 水面下では、首相官邸内でもすでに緊急会議が開かれ、ある極秘の指令が飛び交っていた。


 ――「例の“S”とは何者なのか。早急に特定しろ」


 その指示を受けた各情報機関が動き出し、関係者リストの洗い出しや、独自の監視網による対象者の追跡が開始されたという、にわかには信じがたい噂も流れ始めていた。


◇ ◇ ◇


 一方、フリージャーナリストの高遠冴子も、現場で感じたあの「違和感」と、「偶然とは思えない収束劇」の裏にある真実を突き止めようと、取材を加速させていた。

 

 政府関係者や、元『危機管理機構』職員(と噂される人物)への接触を試み、断片的な情報を丹念に繋ぎ合わせていく。


 そしてついに――彼女は一つの名前にたどり着いた。


 椎名陽。

 事件の中心にいた可能性が極めて高いとされる、その男。


(……間違いないわ。あの男が、何かをした。そして、政府はそれを隠蔽しようとしている。でも、なぜ……? 彼を守るため? それとも、もっと大きな“何か”を恐れているの……?)


 彼女の胸に芽生えた疑問は、もはや消えることはなかった。


 冴子は、自身のブログやSNSで、政府の情報隠蔽を非難し、真実の究明を求める記事を次々に発信していった。

 

 それはまだ小さな波紋に過ぎなかったが――確実に、世論に影響を与え始めていた。


◇ ◇ ◇


 危機管理機構の司令室。

  氷川英玲奈は、連日加熱する「“S”様」フィーバーと、それに対する政府の後手後手の対応に、深い憂慮を抱いていた。


 彼女は知っていた。

 椎名陽という男が、無自覚のうちに世界を救った――という、誰にも信じられないような「真実」を。


 だが、その事実を世間に公表することはできない。

 

 それは、彼の安全を守るためでもあり、同時に、社会の混乱を防ぐためでもある。

 

 事実を明かせば、陽は瞬く間に“英雄”として扱われるだろう。だが、それは彼の望む生き方ではない。

 

 何より、その“力”が今後も安全である保証は、どこにもなかった。


(……このままでは、彼の平穏な日常が、完全に壊れてしまう。そして、彼自身が持つ“力”が、制御不能な形で暴走する危険性すらある。政府は一体、いつまでこの状況を放置し続けるつもりなのかしら……)


 英玲奈の焦燥は、日に日に増していた。

 

 ネットでは“救世主”を求める声が過熱し、都市伝説が独り歩きし、政府内では陽の特定を巡って水面下の動きが激化している。

 

 なのに、肝心の本人は――


 何も知らず、今日もきっと、平凡な昼休みに缶コーヒーを片手に散歩をしているのだろう。


 世界は、英雄なき救済の余波の中で、静かに、しかし確実に次の局面へと進もうとしていた。

 

 そして、その中心には、いつも“彼”がいる。


 氷川英玲奈は、メインモニターの光を背に、静かに立ち尽くしていた。

 

 窓の外には、きらびやかな東京の夜景が広がる。だがその光の下で、何も知らない人々が、“救われた”ことすら知らずに日常を送っている。

 

 ――そう思うと、胸の内に押し寄せるのは安堵ではなく、むしろ圧迫感に近い焦燥だった。


「……彼が、また世界を救った。そして、彼だけがその事実を知らない。この歪な均衡を、私たちはいつまで保てるというのかしら……」


 英玲奈は、思わず重いため息をついた。


 椎名陽。

 

 ただの会社員として日常を送っているはずの彼が、誰よりも強く、そして誰よりも無防備な存在であることを、彼女は知っている。

 

 守らねばならない。だが同時に、その力を放置しておくことの危うさも理解していた。


 無自覚なままに世界を変える男。

 それは希望であり、同時に脅威でもある。

 

 もし、彼の存在が世に知られれば――騒動では済まない。崇拝か迫害か、いずれにせよ、彼の“日常”は確実に終わる。


 それだけは、避けなければならない。

 

 英玲奈は、机上の書類に手を伸ばし、今後の対策案を再度見直しはじめた。

 

 だが、いくら計画を練っても、肝心の「彼自身」が何も知らないという現実が、すべてを不安定にさせていた。


(……彼の存在を、制御不能なまま放置しておくこと。それこそが、最大の“リスク”なのかもしれない)


 そのとき、室内の静けさを破るように、小さな通知音が鳴った。

 

 新たな異常反応――都内の別地点で、また微弱なゲート反応が観測されたという報告だった。


 英玲奈の目が細められる。

 世界はもう、止まってなどいない。次の波は、確実に迫っている。


 そして――その中心に、また椎名陽が巻き込まれる可能性は、極めて高い。


 彼女の戦いは、まだ終わっていなかった。

 むしろ、ここからが始まりなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る