第34話:無自覚の調律――サラリーマン、世界を救う(本人と世間は気づかず)
椎名陽が、お気に入りの「異界めいた路地」での昼休みの散歩を終え、何事もなかったかのようにラーメン屋へと向かっていった――その直後のことだった。
危機管理機構の司令室では、依然として信じられないといった空気が支配していた。
だが、メインモニターに表示されている数値とグラフは、紛れもない“事実”を告げていた。
観測史上最大級とされたゲートエネルギー反応が、急速に、そして不可解なほど滑らかに沈静化していたのである。
危険閾値を完全に下回り、なおも落ち着き続けるその挙動は、まるで嵐が過ぎ去ったあとの静けさを思わせた。
「……エネルギーレベル、平常値まで回復。……ゲート反応、完全にロストしました」
オペレーターの報告が静かに響いた瞬間、司令室内にはようやく安堵の息が漏れ始める。
だが、それ以上に、空気には困惑が満ちていた。
一体何が起きたのか――。
氷川英玲奈は、その不可解な沈静化の背後にある“何か”を突き止めるべく、すぐさま部下に指示を出す。
今回のゲートエネルギー変動に関する全ログデータと、同時刻における椎名陽の行動記録――これは彼女が極秘裏に追跡・記録させていたものだ――の照合作業が始まった。
やがて、数分後。
英玲奈の前のモニターに、二つのグラフが並んで表示された。
一つは、先ほどまで世界を揺るがす脅威となっていたゲートエネルギーの推移。
急激な上昇と、それに続く不可解なまでの下降。
もう一つは、椎名陽の行動ログをもとに作成された、移動範囲と滞在時間を示す時間軸のグラフ。
英玲奈の目が、その二つのグラフをとらえた瞬間――彼女の呼吸が、ほんの一瞬止まった。
二つのグラフは、まるで運命の糸で結ばれているかのように、完璧なまでの一致を見せていた。
椎名陽が「異界めいた路地」――すなわちゲート暴走確定地点の直上――に足を踏み入れた瞬間から、ゲートエネルギーの上昇率は僅かに鈍化を始めていた。
そして彼がその場に滞在していた約30分間、エネルギーレベルは驚くほど安定し続け、ピークの手前で奇妙な均衡を保ち続けた。
やがて陽が路地から立ち去ると同時に、今度は逆に、堰を切ったかのように急速な下降が始まり、数分後には完全に危険域を脱していた。
「……やはり、彼だわ……」
英玲奈の口から、無意識のうちに言葉が漏れる。
「彼が、何も知らずに、ただそこにいただけで……この未曾有の危機を回避させた……!」
そう。椎名陽は、戦ったわけでも、何かを操作したわけでもない。
ただ、いつも通りの昼休み――散歩をして、缶コーヒーを飲んで、静かに過ごしていただけだった。
にもかかわらず、その“ただそこにいた”という事実が、ゲートエネルギーを安定化させ、最終的には沈静化へ導いていたのだ。
「まるで……無自覚のまま、この世界の不協和音を“調律”しているかのようだわ……」
震える声で呟く英玲奈の瞳には、確信に近い戦慄が宿っていた。
科学的根拠は、どこにもない。
理論もなければ、再現性も保証されていない。
それでも、この完璧すぎる一致――あまりに整然とした符合の数々を、偶然だと切り捨てるには無理がある。
彼は、ただ散歩していただけ。
ただ、缶コーヒーを飲んでいただけ。
その、ごく平凡で何気ない日常の行動が、結果的に世界を救ったという、この馬鹿げた事実。
だが、モニターに映し出されたデータは、それをただの偶然ではなく――“確定的な出来事”として、突きつけていた。
「対象:椎名陽。本日12:15~12:45、ゲート暴走確定地点Xを通過。彼の当該エリアからの離脱とほぼ同時に、EBR3500ギガジュール超の反応が、わずか5分で危険閾値以下まで急減。その後、完全沈静化」
英玲奈は、自らのタブレット端末に新たな観察記録を打ち込みながら、思考の奥底で震えを感じていた。
彼女の分析官としての冷静な理性が、明確に“危険信号”を鳴らしている。
「……彼の『存在』そのものが、高次エネルギー事象に対する『絶対的調律装置』として機能している可能性が極めて濃厚」
冷たい指先が画面に触れるたび、その文字列の意味が重くのしかかる。
彼は、自覚も意図もなく、ただ“そこにいただけ”で、暴走を抑え、世界を救った。
理論もメカニズムも説明できない。
だが、現象は確かに起きていた。
この存在は――危険だ。
英玲奈は、そう強く感じていた。
椎名陽という男は、偶然を超越した何かを背負っている。
その“力”が本人に自覚されていないからこそ、不安定で予測不能だ。
いわば、本人が意図せず作用する“自然災害”にも似た存在。
今は世界を救った。
だが、次はどうだ?
彼が気まぐれに歩く道が、今度は災厄を招かないという保証はどこにもない。
(この男の存在は、もはや『危機管理機構』だけで抱えきれるものじゃない……)
英玲奈は、薄く唇を噛み、視線をデータの波から空へと移した。
陽をどう扱うべきか。どう管理するか。あるいは――
彼女の中で、その問いが、静かに、だが確かに芽生えはじめていた。
◇ ◇ ◇
政府官邸の危機管理センターにも、ゲート完全鎮静化の一報はただちに届けられた。
会議室内には、張り詰めた緊張がようやくほどけたことで生まれる、安堵と困惑の入り混じった空気が漂っていた。
「……原因は、依然として不明、か。しかし、最悪の事態は回避された。まずは、それを良しとしなければならんな」
総理大臣は、疲労の色濃い表情で静かに言った。
「……それにしても、我々は、結局何もできなかった。ただ、見ていることしか……。まるで、世界の危機管理の主役から引きずり下ろされたかのような、奇妙な敗北感だ……」
会議室にいた誰もが、彼のその言葉を否定できなかった。
今この瞬間も、誰もが、この不可解な現象の背後に“何か”があることを直感していた。
だが、確かなものは何一つ分からない。
現場は混乱していた。政府は無力だった。
そして何より、自分たちの知らないところで、何者かが世界を救ってしまった――その現実だけが、重くのしかかっていた。
だが彼らは、まだ知る由もない。
自分たちが、名も知らぬ一人のサラリーマンの、何気ない昼休みの“散歩”によって救われたのだということを。
そして、これからもきっと、その事実を知ることはないだろう。
世界は、誰にも気づかれぬまま救われた。
その救世主は――今ごろ、どこかのラーメン屋で、のんびりと昼食を楽しんでいるのだから。
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