第32話:サラリーマンは静かに散歩する(世界終焉20分前)
その瞬間、東京の地下深くで――何かが、確かに動き始めていた。
人知れず存在する巨大なエネルギーの塊が、まるで意志を持った生き物のように、ゆっくりと、しかし確かに脈動している。
それは単なる自然現象ではなかった。
次元の裂け目――『ゲート』――が暴走を始める、絶対的な予兆。
そのエネルギーは、刻一刻と力を増し、地下の空間をねじ曲げる。
周囲の空間は歪み、重力の均衡は微かに乱れ、目に見えない歪みが静かに、しかし確実に広がっていく。
やがてそれは、地上に破滅的な災厄をもたらすだろう。
世界の終焉まで、あとわずか。
だが地上で暮らす人々のほとんどは、その足元で進行している危機に気づいていなかった。
満員電車に揺られ、スマートフォンを眺めながら昼食のメニューを迷い、職場ではメールと格闘する。
そんな平凡な日常のすぐ下で、世界はすでに崩壊へと向かっていた。
地下の胎動は止まらない。
その律動は確かに、何かを呼び寄せている。
見えざる歯車がゆっくりと噛み合い、破局へのカウントダウンを刻み始めていた。
だが、誰もその音に耳を傾けてはいない。
地上の喧騒に紛れ、その不穏な気配は、今も静かに地下に潜み続けている。
◇ ◇ ◇
その日の昼休み。
椎名陽は、いつものように会社の社員食堂で日替わり定食を平らげていた。
今日は生姜焼き定食。
ラッキー、と思いつつ、満足げに箸を置く。
おもむろに席を立った陽に、隣の席の同僚・田中が声をかける。
「あれ、椎名さん、もう行くの? 今日はコーヒーでも飲んでゆっくりしない?」
陽はにこやかに答える。
「ああ、うん。ちょっとね。食後の運動っていうか、お気に入りの散歩コースがあってさ。天気がいいから、少し歩いてこようと思って」
「へえ、散歩ねぇ。健康的でいいね。俺なんか、昼休みはいつもデスクで突っ伏してるよ。……まあ、頑張って」
田中はそう言うと、再びスマートフォンのゲーム画面に視線を戻した。
画面からは、ポチポチと小さな電子音が鳴っている。
陽は軽く手を振ると、足取りも軽く社員食堂を後にした。
向かう先は、もちろん、例の「異界めいた路地」だ。
最近、お気に入りだった散歩スポットが次々と工事で封鎖され、少々困っていたのだが、昨日、会社の近くに新しい「良さげな路地」を偶然発見したばかりだった。
もちろん、その路地が、現在都心部地下で観測されている観測史上最大級のゲートエネルギー暴走の直上地点だということを、陽は知る由もない。
(うん、今日もいい天気だな。絶好の散歩日和だ)
陽は鼻歌まじりに歩きながら、目的の路地へと足を向ける。
その路地は、古びたビルとビルの隙間に挟まれた、薄暗くて人通りの少ない場所だった。
壁には落書きがされ、地面にはゴミが散乱している。
お世辞にも綺麗とは言えないその空間に、陽はなぜか妙な安心感を覚えていた。
(うん、この寂れた感じ、悪くないぞ。人もいないし、静かでいい)
満足げに頷きながら、ゆっくりと路地の奥へと進んでいく。
しかし今日の路地は、いつもとほんの少し、様子が違っていた。
空気が妙に乾いていて、歩くたびにパチパチと静電気が走り、髪の毛が逆立つような感覚がある。
足元の地面も、ほんのわずかだがカタカタと震えている気がした。
けれど、陽はそれらの異常をすべて、特に気にすることもなく片づけてしまう。
(まあ、こんな日もあるか)
道端に咲いている名も知らぬ雑草を見ては「お、こんなところにも花が咲いてるのか。健気だなあ」と感心する。
また、壁の落書きを見ては「この絵、なんか前衛的でよく分からんけど……味があるな」と、一人でツッコミを入れて楽しむ。
やがて彼の視線は、路地の中ほどにある古びたベンチへと向けられる。
そこは、昨日見つけた「特等席」だった。
不思議なことに、そこに腰を下ろすと、まるでそこにだけ穏やかな風が吹き、頭上から柔らかな陽光が差し込んでいるかのように感じられる。
実際には、空は見えないはずなのに。
「よし、今日もここで一休みするか」
陽はコンビニで買ってきた缶コーヒーを取り出し、プルタブを引いた。
プシュッという軽快な音が、静まり返った路地に小さく響く。
そして彼が一口飲んだ、その瞬間だった。
陽の周囲の空間が、ほんのわずかに陽炎のように揺らめいた。
肉眼では確認できないが、ベンチのすぐ外側の地面には、無数のトラップモンスターが潜んでいた。
鋭いトゲ状の身体を持ち、地面に隠された地雷のように、今にも実体化しそうな状態だった。
それらは、ゲート暴走の影響によって、この路地の最深部近くに出現しはじめていたのだ。
だが――それらの存在が、陽の体から自然に形成された不可視の「聖域」に触れた瞬間、事態は一変する。
まるで陽光に晒された吸血鬼のように、トラップモンスターたちは、
――シュウウウ……
という音を立てて、煙のように消滅していった。
陽は、その現象にまったく気づいていない。
ただのんびりと缶コーヒーを味わいながら、昼のひとときを過ごしているだけだった。
やがて飲み終えた陽は、缶を片手に周囲を見回す。
「あ、ゴミ箱……あったあった」
近くにぽつんと置かれていた金属製のゴミ箱――に見えるが、実はそれも擬態したモンスターの一種だった。
陽は軽く腕を振って、空き缶をゴミ箱に向かって投げる。
だが缶は、ゴミ箱の縁に当たって跳ね返り、コロコロと転がって、さっきトラップモンスターが消滅した地面に落ちた。
「うーん、これは……俺のセンスの問題かもな。最近、コントロール悪いんだよな」
首をかしげる陽。
その直後、彼の耳にかすかな音が届く。
「……ん? なんか今、変な音しなかった? シューって……。気のせいか。まあ、いっか」
彼はすぐに気にするのをやめた。
それは、彼にとってただの“よくある日常の一コマ”にすぎなかった。
「ふぅ、いい汗かいた。これで午後の仕事もバッチリだな」
缶コーヒーを飲み終えた陽は、額の汗を袖でぬぐい、軽く背伸びをする。
彼の目には、この路地がどこまでも穏やかで、気持ちのいい“休憩スポット”に映っていた。
「……それにしても、この路地、やっぱり俺と相性がいいのかもな。なんか落ち着くし、変なことも起きそうで起きないし」
冗談めかして続ける。
「俺って、もしかして“場を清める”的な才能でもあるのかな? ……なーんて、そんなわけないか。ははっ」
軽口を叩きながら、陽は満足そうに立ち上がる。
そして、特に何かを気にするでもなく、軽い足取りで路地を後にした。
その瞬間――まるで合図だったかのように、路地に満ちていた不穏な気配が、すっと消え去った。
空気は澄み、音ひとつしない静寂が支配する。
たしかに存在していた異界の“ざわめき”が、跡形もなく消えていた。
世界が、まさに終わろうとしていたその瞬間。
一人のサラリーマンの、何気ない「昼休みの散歩」が、すべてをなかったことにしていた。
もちろん、当の本人はそんな事実にはまったく気づいていない。
呑気な表情で、陽は歩きながら考える。
「さて、午後は何食べようかな。ラーメンもいいけど、カツ丼も捨てがたいな……」
それは、本当にどうでもいいような悩み。
だがその背後では、ほんの数分前まで、確かに終末のカウントダウンが進行していた。
そして今、それは一時的に――だが確かに、止まっている。
彼の足音が遠ざかる路地に、ただ静寂と、どこか透き通った空気だけが残されていた。
誰も知らない。
彼がこの日、世界を一度“救った”ことを。
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