第4話:異空間? それとも新型アトラクション?

 一歩、足を踏み入れた瞬間――空気が変わった。


 ひんやりと湿り気を帯びた空気が肌に触れ、陽は思わず小さく息を吸い込む。


 それは、さっきまでいた地下鉄の連絡通路の、埃っぽくて淀んだ空気とはまるで違うものだった。


 湿った土の匂い。

 かすかに青臭いような植物の香り。

 それらが入り混じり、どこか森の奥深くに紛れ込んだような錯覚を覚える。


(なんだか、森の中みたいな匂いがするな……)


 陽はあたりを見回した。

 そこは、まるで天然の洞窟のような空間だった。


 ごつごつとした岩肌が壁を覆い、天井も高い。

 どこにも人工的な照明は見当たらないのに、不思議と辺りは暗くない。


 岩のあちこち――特に隙間のような部分――が、淡く光を放っていた。

 まるで蛍光を放つ苔か、未知の発光植物のように。


(苔……なのか? それとも、他の何か? セットにしてはやけに本格的だ)


 足元は湿った土で、革靴がサクッ、サクッと静かに音を立てる。

 薄暗い中を慎重に歩きながら、陽はふと背後を振り返った。


 ……だが、そこにあるはずのものが、なかった。


 さっきまで通ってきたはずの木製の扉が、消えている。

 そこにあったのはただの岩壁で、扉の痕跡すら見当たらない。


(あれ……? 扉は? どこいったんだ?)


 一瞬、背筋にぞくりと寒気が走った。

 まさか、戻れなくなった……?


 だが、思いのほか焦りは湧いてこなかった。

 むしろ、目の前の非現実的な光景に、陽の心は不思議な高揚すら感じていた。


 現実味のなさが、逆に彼の疲れた神経を刺激してくれる。

 まるで現実逃避のような、ちょうどよい異世界。


(まあ……いいか。どうせ、どこかに出口があるだろう)


 陽は苦笑しつつ、足元の光に導かれるようにして前を向いた。


 奥の方には、さらに強い光がぼんやりと見えている。

 それは、出口かもしれないし、発光する苔が密集している場所かもしれない。


 とにかく、行って確かめてみるしかない。


 光に導かれるように、陽はゆっくりと歩みを進めていった。


 しばらくすると、道が少し開けた場所に出た。

 そこには、小さな泉のようなものがあった。

 澄んだ水が静かに湧き出し、表面にはほとんど波もない。


 その周囲には、さきほどよりも多くの発光する苔が生えており、やわらかな光があたり一帯を包んでいる。


(……わあ……)


 思わず、感嘆の声が漏れた。


 人工物では決して再現できないような、幻想的な美しさがあった。

 駅の地下にこんな場所があるとは、常識的に考えてもおかしい。


 けれどそのおかしさすら、今の陽にはどうでもよく感じられた。


(綺麗だな……)


 素直に、そう思えた。


 日々の仕事に追われ、何を見ても「効率」や「目的」を考えてしまっていた日常。


 そんな生活の中で、“ただ美しい”と感じる時間がどれほど貴重なものだったか――今になってようやく思い出せた気がした。


 陽は泉の縁に腰を下ろし、そっと水面に手を伸ばした。


 指先が触れると、ひんやりとした感触が心地よく伝わってくる。

 思わず顔でも洗ってみたくなったが、さすがに躊躇した。


(……得体の知れない水を顔にかけるのは、ちょっとな)


 再び周囲を見渡す。


 苔の光は一定のリズムでやさしく明滅し、耳に届くのは水音と自分の息遣いだけ。

 まるで世界に自分ひとりだけが取り残されたような、不思議な静けさがあった。


(本当に、なんなんだろうなここ。駅のリニューアル工事で作った……体験型のアトラクション?)


 だとすれば、あの消えた扉も「驚かせ演出」のひとつなのかもしれない。

 確かに驚いた。でも、それにしてはスタッフの姿が一人もないのは不自然だ。


(もしかして、俺が一番乗り? プレオープンのテスト客とか?)


 そんな妄想を自分に言い聞かせるようにしながら、陽は再び立ち上がった。


 泉の奥、ゆるやかな下り坂が続いている。

 その先にも、発光する苔が道を照らすようにぽつぽつと光を放っていた。


 幻想的な美しさの奥に、かすかに漂う異質さ。

 陽はまだ、その違和感を深く考えようとはしていなかった。


 道はゆるやかな下り坂になっていた。

 壁に点在する発光する苔が、足元を照らすように一定間隔で輝いている。


 陽は、その幻想的な光の道に導かれるまま、さらに奥へと足を進めていった。


 しばらくすると――

 「カサカサ」と何かが動くような音が前方から聞こえた。


 小さな音。だが、静寂の中では妙に目立つ。


(……なんだ? ネズミ、か?)


 最初はそう思った。

 地下鉄の構内にも時折ネズミが出る。それなら驚くほどのことでもない。


 けれど、この音は違っていた。

 もっと大きく、重たく、そして……数が多い。


 複数の何かが、こちらの様子を伺うように動いている――そんな気配があった。


 陽は思わず足を止め、音のした方向に視線を向けた。


 そして、次の瞬間、岩陰から“それ”が現れた。


 緑色の肌。

 人間の子供ほどの背丈。

 粗末な布をまとい、手には木の棒のようなものを握っている。

 尖った耳に、大きく膨らんだ鼻。


 ギラギラと光る小さな目が、こちらをじっと見つめていた。


(……え?)


 現実感がすっと薄れる。


 それは、まさにファンタジー作品で見たことのある“ゴブリン”そのものだった。


(ゴブリン? いや、まさか。これは……着ぐるみか、何かだろ?)


 陽は思考を振り払うように首を軽く振った。


 こんな現実離れした生き物が、本当に存在するわけがない。

 きっと、これはアトラクションの演出だ。そう思い込もうとした。


 だが、“”は陽を見た途端、奇妙な声を上げ、棍棒を振りかざして走ってきた。


 そして、後ろの岩陰からも、次々と同じような小さな影が現れる。

 あっという間に五体、六体と増えていき、まるで群れのようにこちらへ迫ってきた。


(うわ、結構な数だな……。演出としては手が込んでるけど、ちょっと迫力ありすぎだろ)


 陽は驚きながらも、どこか冷静だった。


 恐怖というより、むしろ「演出の一部だ」と思い込んでいることへの安心感が勝っていた。


 だが、次の瞬間、信じられないことが起こる――。


 一体の小柄な怪物が棍棒を振りかざし、陽めがけて突っ込んできた。


 反射的に体を傾けた陽の動きは、あまりにも自然で、まるで人混みをすり抜けるかのように無駄がなかった。


 棍棒は空を切り、その勢いで怪物は前のめりによろける。


(おっと……危ない危ない)


 さらに二体、三体と次々に襲いかかってくる。

 だが、誰一人として陽に触れることはできなかった。


 まるで陽の周囲に見えないバリアでもあるかのように、すべての攻撃が寸前で外れていく。


(……なんだこれ。俺、いつの間に回避スキルでも手に入れた?)


 陽は内心で冗談めいたことを考える。

 けれど、その余裕も嘘ではなかった。


 不可解な現象のはずなのに、なぜか焦りや恐怖が湧いてこない。


 むしろ、自分の体が自然に状況に適応していることに、どこか感心していた。


 襲いかかってきた緑の小人たちは、次第に困惑し始めていた。


 棍棒を振っても当たらず、攻撃がすべて無効化されているような状況に、彼らの顔には明らかな動揺が見え始めている。


 一部は立ち止まり、互いに顔を見合わせていた。

 そして、陽の前で足を止め、警戒するように距離を取る者もいる。


(あれ……これ、演技じゃないのか? 本当に困ってる……?)


 ようやく、陽の中に違和感が浮かんだ。


 当初はアトラクションの演出だと思っていた。

 すべて仕込みで、きっと何らかの「体験型イベント」だと。


 だが、もしそうなら、なぜ攻撃がここまで外れるのか。

 なぜ、自分だけが“例外的に”この状況を回避できているのか。


(……もしかして俺、何かやっちゃってる?)


 陽はようやく思い至る。


 もしかすると、自分の行動が演出の流れを壊してしまっているのではないかと。

 あるいは、台本外の動きをして、出演者たちを混乱させてしまっているのではないかと。


(これは……さすがに、まずいかもな)


 敵意があったのか、なかったのか。

 そもそも彼らは“本当に演者”だったのか。

 その確信すら、今の陽には持てなかった。


 けれど、はっきりとひとつだけ感じたのは――

 この場に、あまり長くいるべきではないという、本能的な警告だった。

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