第3話:残業帰りの誘惑

 深夜の駅の連絡通路。

 陽は、古びた木製の扉の前に立ち尽くしていた。


 周囲には、陽以外の人影はない。


 ただ、無機質な蛍光灯の光だけが、静かに彼と扉を照らしている。

 その光は、まるでこの扉だけが特別な意味を持つかのように、他とは異なる陰影を作り出していた。


(本当に、なんなんだ、この扉……。朝見た時よりも、もっと異様に見える)


 朝見た時よりも、その存在感は増しているように感じられた。

 昼間の喧騒の中では、まだ日常の風景の一部として紛れていたかもしれない。

 辛うじて。


 しかし、今は違う。

 この静寂の中で、扉はまるで異質な何かへと続く入口のように、陽の目の前に鎮座している。


 近づいて、もっとよく観察してみる。

 木の表面はザラザラとしていて、長年風雨に晒されたような風格がある。


 しかし、ここは地下鉄の駅の通路だ。風も雨も当たるはずがない。

 どう考えてもおかしい。


 取っ手は、やはり錆びついた金属製。

 鈍く黒光りしている。


 そして、再び陽の目に留まったのは、扉の表面に刻まれた、消えかけた文字のようなものだった。


(やっぱり、何か書いてある……アルファベットでもないし、漢字でもない……何かの模様か、それとも本当に文字なのか……)


 何度見ても、その意味を理解することはできなかった。


 だが、それがただの落書きや模様ではなく、何か意図を持って刻まれたものであるという確信だけが、陽の中に芽生えていた。


(開けたら、どうなるんだろう)


 ただの資材置き場か、駅の設備室か。

 あるいは、本当に何かのイベントの準備で、今は誰もいないだけなのか。


 それならそれで、別に問題はない。

 扉を開けたところで、駅員に叱られるくらいだろう。


 ただ、陽の胸騒ぎは、それだけでは説明がつかない何かを示唆していた。

 この扉の向こうは、もっと根源的に「違う」場所なのではないか、と。


 朝に聞こえた、あの不思議な音。

 風鈴のような、水の滴るような。

 今、耳を澄ましてみるが、何も聞こえない。


 やはり、あれは疲労による幻聴だったのだろうか。

 それとも、この扉は、特定の条件が揃わないと音を発しないのだろうか。


(でも、この床の擦り切れ方は……明らかに誰かが出入りしてるよな。それも、かなり頻繁に)


 陽は扉の前の床に視線を落とす。


 そこだけ、周囲のタイルと比べて明らかに摩耗している。

 まるで長年、多くの人々に踏みしめられてきたかのように。


(帰ろう。もう、いい加減にしないと)


 これ以上関わるのは、やはり面倒だ。

 好奇心はある。強くある。

 しかし、それ以上に、今の陽には休息が必要だった。


 明日の仕事のことを考えれば、一刻も早く家に帰って眠りたい。

 ベッドに入って、何も考えずに意識を飛ばしたい。

 こんな得体の知れないものに構っている暇はないのだ。


 陽は扉に背を向け、一歩踏み出した。

 その時だった。


 ――チリン。


 微かに、しかしはっきりと、あの音が聞こえた。

 風鈴のような、澄んだ金属音。


 陽は思わず足を止め、振り返る。全身の産毛が逆立つような感覚。


(今のは……確かに! 間違いない!)


 幻聴ではない。

 間違いなく、扉の向こう側から聞こえてきた音だ。


 心臓が、ドクンと大きく跳ねる。

 まるで警告の鐘のようにも、誘いの鈴のようにも聞こえた。


 まるで、扉が彼を呼んでいるかのように。

 まるで、扉の向こうに何かがあると、告げているかのように。


(どうしよう。行くべきか、行かざるべきか)


 帰るべきだ。

 理性はそう告げている。


 これは罠かもしれない。

 これは何かの間違いだ。

 関わってはいけない。

 ろくなことにならない。


 しかし、陽の足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。


 彼の脳裏に、今日の出来事が、そしてこれまでの社畜人生が、走馬灯のように蘇る。


 上司の無茶振り。クライアントの無理難題。

 終わらない残業。減らない疲労。

 そして、それに何の疑問も抱かず、ただ黙々と従う自分。


 まるで、意思のない人形のように。消耗品のように。


(毎日、毎日、同じことの繰り返し。俺は、このままでいいのか? このまま、擦り切れて終わるだけなのか?)


 そんな疑問が、ふと頭をよぎった。

 この扉の向こうに何があるのかは分からない。


 もしかしたら、ただの倉庫かもしれない。

 あるいは、もっとつまらない、何もない空間かもしれない。


 だが、もしかしたら――


(何か、違うものがあるのかもしれない)


 それは、今の陽にとって、抗いがたい誘惑だった。


 この退屈で、息苦しくて、出口の見えない日常から、ほんの少しでも抜け出せるかもしれないという、淡い、しかし強烈な期待。


 危険かもしれない。

 後悔するかもしれない。

 馬鹿げているかもしれない。


 でも――。


 陽は、ゆっくりと扉に手を伸ばした。

 冷たい金属の取っ手に指が触れる。


 その瞬間、またチリン、と音がした。

 今度は、もっと近くで。まるで手招きするように。


(開けてみよう。何があっても、今のこの日常よりマシかもしれないじゃないか)


 もう、迷いはなかった。一種の開き直りだった。


 彼は、錆びついた取っ手に力を込めた。

 ギィィ……という、重々しい、まるで長年開けられたことのないような軋む音と共に、扉がゆっくりと内側へと開いていく。


 隙間から、ひんやりとした空気が流れ込んできた。


 そして、そこには――。


 真っ暗な闇が広がっていた。

 いや、よく見ると、奥の方に、何かぼんやりとした燐光のようなものが見えるような気もする。


 そして、湿った土の匂いと、どこか懐かしいような、草いきれの匂いが微かに漂ってきた。


 駅の地下通路とは、明らかに異なる空気。異質な気配。


(これは……本当に、駅の施設なのか……?)


 陽は息を呑んだ。


 好奇心と、ほんの少しの恐怖。

 そして、それを上回る、未知への期待感。


 彼は、扉の隙間に体を滑り込ませるようにして、一歩、足を踏み入れた。


 背後で扉が閉まる音は、なぜか聞こえなかった。


 だが、それが余計に「もう戻れないかもしれない」という漠然とした不安をかき立てた。


 しかし、それと同時に、周囲の喧騒が完全に消え去り、不思議な静寂が彼を包み込んだ。


 まるで、本当に別の世界に迷い込んでしまったかのような感覚。


(本当に、何なんだ、ここは。でも、なんだか……少しだけ、わくわくするような……)


 陽は、奥に見える微かな光を目指して、ゆっくりと歩き始めた。


 足元は、硬いコンクリートではなく、少し柔らかい土のような感触だった。

 踏みしめるたびに、サクサクと軽い音がする。


 彼の平凡な日常が、今、静かに、しかし確実に、終わりを告げ、新たな何かが始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る