第2話:地下鉄駅の奇妙な扉

 重い足取りで家を出た陽を待ち受けていたのは、予想通りの満員電車だった。


 ぎゅうぎゅう詰めの車内は、湿った空気と人いきれで満ちている。

 汗の匂い、香水の匂い、誰かの朝食の匂い。

 それらが混ざり合い、不快な協奏曲を奏でていた。


 耳にはイヤホンを差し込み、せめてもの抵抗として外界の騒音を遮断しようと試みるが、不快な振動と圧迫感からは逃れられない。

 時折、隣の人の肘が脇腹に食い込み、小さく呻きそうになる。


(毎日毎日、よく飽きもせずこんな思いして会社行くよな、俺も……。一種の修行か何かか? 悟りでも開けるならまだしも……)


 吊革に掴まりながら、陽はガラス窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めた。


 そこには、生気の欠片もない、疲れきったサラリーマンの姿があるだけだ。

 目の下の隈は、もはやデフォルト設定。


 周囲を見渡せば、同じような顔つきの人間が何人もいる。

 皆、一様に無表情で、スマートフォンの画面に視線を落としている。


 まるで、巨大なベルトコンベアで運ばれる部品のようだ、と陽は思った。

 個性を失い、ただ決められた場所へと運ばれていく。


(みんな、何のためにこんなに頑張ってるんだろうな……。俺は……とりあえず、今月の家賃と光熱費のため、か……。あと、奨学金の返済もまだ残ってるしな……はぁ)


 そんなことを考えているうちに、電車は目的の駅に到着した。


 ドアが開くと同時に、人々が我先にと降りていく。

 その流れに乗り、陽もホームへと吐き出される。

 人波をかき分け、乗り換えのためにいつもの連絡通路へと向かった。


 雑然とした駅の構内。行き交う人々の足音とアナウンスが騒々しく響いている。

 広告のポスターだけが、やけにカラフルで場違いに見えた。


(今日も一日、長いぞ……。せめて、昼飯くらいは美味いものが食べたいけど、そんな時間あるかな……)


 深いため息をつきそうになるのをこらえ、陽は歩き慣れた通路を進んでいく。


 壁には企業の広告や、啓発ポスターが並んでいる。

 どれもこれも、今の陽の心には響かない。


 その途中、ふと視界の端に違和感を覚えた。


(ん……?)


 いつもは何もないはずの壁際に、見慣れないものがある。

 それは、古びた木製の扉だった。

 周囲の近代的な駅の風景とは明らかに不釣り合いな、時代がかったデザイン。


 ペンキはところどころ剥がれ落ち、乾燥してひび割れている部分もある。

 金属製の大きな取っ手は、錆びついているのか、鈍い黒茶色に変色していた。

 まるで、古い洋館か、どこかのテーマパークの忘れられたセットのようだ。


(なんだ、あれ……? 昨日まで、あんなのあったか……? いや、絶対になかったはずだ)


 陽は足を止め、その扉をまじまじと見つめた。


 扉の前には特に立て看板や注意書きのようなものもない。

 ただ、ぽつんと、そこにある。

 まるで、最初からそれが当たり前であるかのように、周囲の風景に溶け込もうと……いや、むしろ異物感を放ちながら存在している。


 よく見ると、扉の前の床タイルの一部が、他よりも妙に擦り切れているような気がした。

 まるで、誰かが頻繁に出入りしているかのように。


 そして、扉の表面には、何か文字のようなものが刻まれていた跡が、うっすらと残っているようにも見えた。

 ほとんど消えかかっていて、何と書いてあるのかは判読できないが。


(工事用の仮設扉……にしては、やけに凝ってるし、古めかしすぎるな)


 あるいは、何かのイベントの準備だろうか。

 駅の構内で時々、期間限定のショップや展示会が開かれることがある。


 それにしても、こんな通路の隅に、こんな雰囲気の扉というのは、いささか奇妙だ。

 PR用のポスター一枚すらない。


(まあ、俺には関係ないか……。きっと、駅員さんに聞けば分かるんだろうけど、そんな時間もないしな)


 陽は小さく首を振り、再び歩き出そうとした。

 しかし、なぜかその扉から目が離せない。

 まるで、吸い寄せられるような、不思議な感覚。

 その時、確かに聞こえた。


(……音?)


 扉の向こう側から、何か微かな音が。

 風鈴のような……いや、もっと澄んだ、金属的な音色。

 チリン、チリン、と。


 あるいは、水の滴るような……ポタリ、ポタリ、という湿った音にも聞こえる。

 こんな騒がしい駅の構内で、そんな繊細な音が聞こえるものだろうか。


(疲れてるんだな、俺も……。変なものが見えるし、幻聴まで聞こえるなんて)


 きっと、昨日の夜更かしと、今日の月曜日のプレッシャーが、自分の判断力を著しく鈍らせているのだ。


 陽はそう結論付けた。

 深く関わるのは面倒だ。


 遅刻でもしたら、また課長に何を言われるか分からない。あの人のネチネチとしたお説教は、どんなホラー映画よりも恐ろしい。


 彼はその奇妙な扉に背を向け、再び会社へと続くいつもの道を急いだ。


 しかし、頭の片隅には、あの古びた扉の印象と、消えかけた文字、擦り切れた床、そして微かに聞こえた不思議な音が、妙に強く残っていた。


 その日の業務は、陽の予想を裏切ることなく、過酷を極めた。


 朝イチのプレゼンでは、案の定、課長からの直前の仕様変更要求が炸裂し、冷や汗をかきながら何とか乗り切った。


 クライアントとの打ち合わせでは、無理難題のオンパレードに、愛想笑いを貼り付けたまま耐え忍んだ。


 夕方には、別件でシステムトラブルが発生し、その対応に追われ、関係各所への謝罪行脚。


 気づけば、時計の針はとっくに深夜を指していた。もはや曜日感覚すら曖昧だ。


(……終わった……のか? いや、まだ積み残しが山ほどあるけど……。もう、何も考えたくない……)


 ふらふらになりながら会社を出た陽は、終電間際の電車に滑り込む。

 幸い座席は空いていたが、そこに座る気力すら湧いてこない。


 ドアのそばにもたれかかりながら、今日の出来事をぼんやりと思い返す。

 脳が情報処理を拒否しているのが分かる。


(本当に、ろくな一日じゃなかったな……。何のために生きてるんだか……。せめて、宝くじでも当たれば、こんな生活ともおさらばできるのに……)


 そんな虚無感に包まれながら、乗り換えの駅に着いた。

 人影もまばらなホームを歩き、連絡通路へ。


 すると、自然と足が、あの場所へと向かっていた。

 朝、奇妙な扉があった場所だ。


(まだ、あるのかな……。それとも、やっぱり何かの見間違いだったのか……。あるいは、もう撤去されたか……)


 疲労困憊の頭で、陽はそんなことを考えていた。


 もし本当に工事用の扉なら、もう撤去されているかもしれない。

 イベントの設営だとしても、深夜なら作業員がいるはずだが、そんな気配は全くない。


 通路の角を曲がると、それは、あった。

 朝と全く同じ場所に、あの古びた木製の扉が、静かに佇んでいる。


 周囲には誰もおらず、ただ不気味なほどの静寂が漂っていた。

 昼間の喧騒が嘘のようだ。


 蛍光灯の白い光が、まるで扉を舞台の主役のように、そこだけをくっきりと照らし出していた。


(やっぱり、ある……。夢じゃなかったんだ……)


 陽はゴクリと唾を飲み込んだ。

 疲れているはずなのに、なぜか心臓の鼓動が少し早くなるのを感じる。


 これは、一体何なのだろうか。


 そして、この扉の向こうには、何があるのだろうか。


 日常に疲れ果てた陽の心に、ほんのわずかな、しかし抗いがたい好奇心が芽生え始めていた。


 それは、この灰色の日常から抜け出せるかもしれないという、淡い期待感にも似ていた。

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