第3話 ごはんは心を満たさない
「ねえ、今日のごはん、なに?」
キッチンの床に座り込んで冷蔵庫を開けていたセリナの背に、義姉の声が飛んできた。
「チキンのトマト煮と、スープと、あとサラダも……」
「えー、またトマト系? うちのごはん、赤ばっかじゃない?」
そう言って義姉はあくび混じりに自分の部屋へ戻っていった。
その背中に「じゃあ自分で作ってみてよ」と言えたら、どれだけラクだろう。
でもセリナは今日も、「うん、ごめんね」とだけつぶやいた。
野菜を刻む手つきは、もはや職人のそれに近い。
母に料理を教わった記憶はない。全部、見て、真似て、覚えた。
味見はしない。
自分の味覚に自信があるわけじゃない。
ただ、“しょっぱい”とか“うすい”とか、“おいしくない”とか――
誰かに言われるたびに、調味料の分量を微調整してきただけ。
今日も“怒られない味”で仕上げる。
トマト煮がふつふつと音を立て、蒸気のにおいがキッチンに立ち込める。
その香りに包まれながら、セリナはふと、思った。
“ごはんって、なんのために作るんだろう”
空腹を満たすため? 健康のため?
それとも――気持ちを伝えるため?
でも、この家には“伝わる”ということがない。
「ごはんできたよ」
そう声をかけると、義姉がソファから起き上がり、スマホを見ながらダイニングに座る。
もう一人の姉は、イヤホンを外さず「ん」とだけ返事して席につく。
義母はテレビを見ながら、「いただきます」も言わずに食べ始める。
セリナは、ただ静かに椅子に座る。
「これ、味うすくない?」
義姉がぽつりと言った。
もう一人も、「スープ、塩足していい?」と冷蔵庫からドレッシングを取り出す。
セリナは笑って「ごめん、今度から濃くするね」と言った。
でも、本当は、ちゃんと測って作った。
チキンは丁寧に下処理したし、トマトも缶詰じゃなくて、生のを煮込んだ。
昨日のスープは味が濃いって言われたから、今日はあえて優しめにした。
“わたしの気持ちも、うすかったのかな”
そう思った瞬間、箸が止まった。
「セリナ、あんた食べないの? 作ったのに」
「うん、食べるよ」
でも、本当はお腹が空いてなかった。
誰かに食べてほしくて作ったものが、“ただの料理”になってしまうと、
それはまるで、自分の心が食べ残されたみたいで――痛い。
夕食後のシンクに並んだ空の皿たち。
トマトの赤い汁が少しだけ残っていて、それがなんだか“失敗した感情”の色に見えた。
セリナはそっと、それをスポンジで拭き取る。
泡が流れていくその様子が、なぜか涙みたいに見えて、
でも、泣くのはちょっと恥ずかしくて、
だから代わりに、黙って皿をひとつひとつ磨いた。
🧹つぶやきメモ
ごはんって、気持ちを込めたら、<br> もっとあったかくなるものだと思ってた。<br>
でも、この家では、気持ちは味に入れちゃいけないらしい。
✅次回予告(第4話:わたしの名前、誰が呼んだ?)
誰かに呼ばれるたびに、「あんた」「ねぇ」としか言われないセリナ。
そのたびに自分の輪郭がぼやけていくような感覚。
ふと、いつから“名前で呼ばれていないか”を思い出し、自分という存在が、ただの“機能”だったことに気づき始める――。
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