このミャクミャクなる者を

オジョンボンX/八潮久道

このミャクミャクなる者を

 日本国首相がミャクミャクを愛撫していた。

 首相官邸のエントランスには多くの報道関係者が集まっていた。大量のフラッシュが焚かれる中で、首相はミャクミャクを撫で回していた。背後から包み込むように抱いて、赤と青の境目を念入りに、その太い指でねっとりと、撫でていく。

「そんな風に触らないでミャク~! 壊れちゃうミャク~!」

 ミャクミャクは合成音声で強く抗議する。だが首相はやめない。


 既に20分が経過していた。秒刻みのスケジュールが狂ってゆく。

 首相秘書官がミャクミャクと首相の隙間をこじ開けようと何度もトライするが無駄であった。秘書官は首相に耳を噛みちぎられ、骨を何本も折られていた。ネクタイはねじ曲がり、スーツのラペルも破れている。

 それでも秘書官は諦めずに首相を、一人の愛欲に溺れたシゲルから日本のあるべき首相へ取り戻す、その使命だけを頼りに愛撫の海へダイブする。

 首相は右手でミャクミャクを撫でまわしたまま、左手で秘書官の首を鷲掴みにすると、棒きれのように振り回して投げ飛ばした。

 テレビカメラが一斉に空中に放り投げられた秘書官を追う。秘書官は動かなくなった。もうシゲルを止める者はいない。


 老人の徒花であった。官邸のエントランスにいつの間にか据えられていたぬいぐるみを、首相は当初、奇妙な存在として認識した。

「なんですか、あれは」

「ミャクミャクといいます。大阪・関西万博の公式キャラクターです」

 首相の目はもはや潰えたと思われた政治家のキャリアの先で、ふいに掴んだその地位だった。国民に強く望まれて登場したのではない。人気も過ぎ去り、就任当初から支持率は低迷した。党内基盤も盤石とは言えず、国会では少数与党の苦しい政権運営を強いられた。

「ミャク……ミャク、ですか」

 毎日顔を合わせるうち、一種の愛着が沸いていた。可愛いわけでも、格好いいわけでもない容姿。ある一時期のための存在。どこかミャクミャクを自身と重ねていたのであろうか。

「ミャク公、調子はどう?」

 声をかけるうちに愛着が募った。

「こんにちはミャク~」

 ある日、衆院予算委からの帰りに突然話しかけられた。のけぞって驚いた。詰問するように秘書官に尋ねた。

「この者は、前にいたミャク公と間違いなく同じものか!?」

 毎日話しかけて声を吸い込んだぬいぐるみはもはや、唯一で無二の存在であった。秘書官はそれが同一かただちに答えられなかったが、首相は答えを待たずに0.5秒ほどで同一だと判別して安堵した。


 ミャクミャクは少しずつセリフを増やしていった。ただ決められたセリフを話すばかりで会話にはならなかった。

「ミャクミャクと万博行ってくれるミャク? 大屋根リングに一緒に登りたいミャクな」

「そうだね、登ろうね」

 万博会場を囲むように建設された「リング」を言っている。しかし首相は、ミャク公と二人でボクシングのようなリングに上がる姿を夢想した。

 裸の老いた体をさらした首相が、ミャクミャクの頭を思い切りはたくと、赤と青のつぶつぶが弾け飛ぶ。レフェリーや観客たちの顔に付着したミャクミャクは、薄く広がって顔を覆っていく。

「そうやってミャク公は増えていくんだね」

「ミャクミャクはいつでもそばにいるミャク。みーんな友達ミャク~」

 新たな機能が搭載されるたびに首相はのけぞって驚いた。可動するようになり、弱いAIが搭載された。ますます首相は熱心に話しかけ、ミャクミャクと自身の存在しない交流の空想にふけった。当初は微笑ましく見ていた秘書官が、徐々に訝しがった。

「コォーッ!」

 移動を催促する秘書官に向かって、首相は威嚇するような声を上げた。


 今回の万博は参加国数が足りず、半数超をゼンベイゴ共和国、ネビルナタミなどの架空の国家で穴を埋めた。それらのパビリオンの完成も間に合わぬまま開会を迎えた。全てがまやかしであった。

「シゲル!」

 弱いAIが今この瞬間に学習していた。初めて首相の名を読んだ。

「ミャク公!!!」

「シゲル~~」

 首相はミャクミャクを愛撫し続けながら、ミャクミャクの耳元(それがどこかは誰にも分からなかったが)に薄い唇を寄せて囁いた。

「大阪など捨てて、二人で鳥取へ落ちていこうじゃないか。鳥取の、底の底まで……二人で、どこまでも、深く、もっと深く、落ちていこう……」

 ミャクミャクは激しく体をくねらせた。体からは煙が出始める。サーボモーターがいかれたらしい。絶頂が近いのかもしれない。

 小学生のシゲルは鳥取の海を見つめていた。少し寂しい町だ。冬の、真っ昼間なのに重たい雲が空を隙間なく覆っているような日の、海を見つめるのが特に好きだった。自分自身が漠然としていくような感じがした。

 雲の隙間から太陽光が差した。光の直線が、海の面と交わる箇所を見つめた。「来る」と少年は思った。「あなたは風、あなたは来る。暗い海を渡ってくる。」どこかで聞いた幻想的な合唱曲が脳の中で響き渡る。「風よ、早くここまで来て。」

 食玩のガムを噛むような匂いが、ふいに充満した。砂浜から赤と青の不定形の塊が湧いた。海を渡ってくるという少年の予感とは裏腹な実現だった。小さな拳ほどの大きさの粒の一つ一つに目が発生した。瞳孔と、水晶体と、網膜を備えた、光を受容する何千もの器官に一斉に見つめられた。その一つ一つが一斉に歌い出した。限りなく日本語のようでありながら、意味を全くなしていない音であった。読経のようでもあった。

 20歳のシゲルは一軒家に住んでいた。2階の窓を開け放つと海の風が吹き込んできた。現実には東京の大学に進学していたから、この鳥取の暮らしの記憶はないはずのものであった。大学生は人付き合いも遠ざけて暮らしていた。窓外には海が広がっていた。海を見つめる青年の傍らには青と赤の不定形のたくさんの目を持つ者がいた。この者との二人暮らしであった。寂しさが去来し老人の目からは涙が溢れた。

「もっと早くに会いたかったよ。ミャク公、ずっと一緒にいたかったんだよ」

「シゲル。ぼくはずっとそばにいたミャク。ぼくがぼくになる前から、ずっといたんだミャク」


 官邸には次々に閣僚が集まっていた。この国難に、どう対処すべきか誰一人として答えを持ち合わせてはいなかった。

「総理!」「総理!」

 閣僚たちの声は届かない。ひこにゃんがいた。ひこにゃんは壊れた秘書官を抱えて無言で立っていた。くまモンも、ぐんまちゃんもいた。北方領土エリカちゃんもいた。全国のキャラどもが集まってきていた。過去の万博を支えたキッコロもいた。(モリゾーは前年に死去し、国葬が営まれていた。)ここが日本になっていた。

「アホンダラが。撫でが足りんのじゃ。おぅいシゲル! もっと腰入れて撫でんかい!!」

 内閣官房長官の隣で首相夫人が活を入れた。

「総理!」「総理!」「総理!」

「腰ィッ! 手で撫でるんじゃない、腰で撫でるんだよ!」

 閣僚たちの言葉は届かなかったが、首相はこの言葉には鋭く反応した。ゆるキャラたちが無言で見つめる中で、愛撫が激しくなり、首相は恍惚の表情を浮かべる。

「総理!」「総理!」

 テレビ各局がこの様子を中継放送していた。

「うちら何を見せられてるんだ」

「なんだろね」

 報道関係者らはそれでも国民の知る権利を守るため、この愛撫を記録し続けていた。

「総理!」「総理!」

「さあーッ見ものだよォ! シゲルがミャクミャクに取り込まれるか。ミャクミャクをシゲルが取り込むか。日本の首相がどんなヴァージョンアップを見せるっていうんだい!?」

 首相夫人は興奮気味な声で叫びながら、視線はあくまで冷ややかであった。ミャクミャクから煙が上がる。体があらぬかたへと蠢く。

「おっおっおっ大阪、カカッカッカッカッ関西、カカッ関西万博、テッピコ、ミャクぅ、テッピッコテッピコ、ミャクぅ、テッピコテッピコ、ミャクミャックミャクミャークミャクミャック」

「ここが日本! 日出づる国、極東のエイジア! 日本!! 国防ーーーーゥ……」

 煙に包まれて、首相の姿は見えなくなっていった。首相の声は、長く響いて溶けていった。ああ、万国を博覧に供する、この瞬間に。


 外は春の風が吹いていた。

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