第10話【夜が来る】
――疼く。
ずくり、と奥底から滲み出る様な、痛み。
痛みで思わずマーラは目を覚ました。
身を起こして頭を押さえる。熱を帯びたように熱い。
「……、」
深く目を閉じ、痛みをやり過ごそうとした。
こめかみに両手を押し当てジッとしていれば、徐々に痛みは和らいでいく。
この痛みは以前に覚えがある。
制御ピアスを外した時だ。
また痛みが出始めたのだろうかと不安に思ったが、少しそうしていると痛みは弱くなったので安心する。小さく息を零し、彼女はすぐに気づいた。隣のベッドで眠っていたはずのテサの姿が無い。すぐに部屋の入り口を見る。閉じていたはずの扉が閉まっている。
瞬間的にマーラは寝台から素早く下りた。
望んだことはないけれど、レジスタンスに身を投じるようになってから……この感覚は幾度も色んなところで味わって、慣れてしまった。
脳裏で警鐘が鳴る。
それが何かは分からなくても、何か良からぬ事が起きている。
そういう空気を感じ取ることがあるのだ。
マーラはいつもならそこに立てかけるはずの、ベッドの端に手を伸ばしてすぐにくっ、と苦い顔をした。剣を置いて来ていることを思い出したのだ。
一番なって欲しくない状況になった。
仕方なく、短剣だけを腰に挿す。
手に構えて、扉を慎重に、押し開く。
周囲の気配を探った。
特に気配はしない。
向かいの部屋に走ってこちらは空いたままだった部屋に入り、彼女は息を飲んだ。
「ライ?」
数時間前、そこで寝ていたはずの彼の姿が無い。
すぐに隣のベッドにも視線をやる。
「ギルノ」
彼の姿もない。
突然世界に一人だけになった。
マーラは、背に走った悪寒に、背を壁に押し付けた。
「はぁ……、はぁ……、」
息が乱れる。
空のベッド。
ライが姿を消すなんてただ事ではないとすぐに分かった。
そして彼女はその時すでに自分がどれだけライを信頼していて、彼に精神的に依存していたかを悟った。
ただ彼の姿が無いだけで、これほどまでに自分は動揺している。
一人でも大丈夫だなどと思っていても不測の事態に陥った時、彼の名を呼べばすぐに駆けつけてくれる。あの姿にどれだけ救われていたのか分かった。
だが、今回そうならなかったといって絶望してる暇は無い。
もしかしたら彼らの方が今、窮地に陥ってるかもしれないのだ。
そうだとしたら、自分が彼らを救って守ってやらなければならない。
(落ち着いて。……落ち着くのよ)
マーラは目を閉じて息を深く吐いた。心を静める。
(貴方は一人じゃない。レジスタンスのリーダーに、望まれてなった人間なのだから)
ヤンゼ、アルグレン、ジルグ、ガルシア、キルヒナ。
帰りを待つ、他の仲間たちの顔を思い浮かべる。
彼らは帝都軍をこのままには出来ないと、
帝都軍人や帝都貴族でありながらマーラに賛同し、共に戦ってくれる存在だ。
自分を信頼し必ず無事に帰ってくると信じて待ってくれている。
彼らの期待や信頼だけは決して裏切ってはいけない。
彼女は手の平で一つ、自分の胸を打った。
そして押さえ込んだ胸の、服の下に感じる首飾りに通した指輪。
(ルカ)
大丈夫だと彼がよくそう言っていた、顔を思い出す。
ルカ・バルトラは同じく帝都貴族であるマーラに害が及んではならないからと、レジスタンスを支援していることを長い間婚約者であるマーラにも言わず秘密にしていたのだ。
それでも最近の帝都の不穏を二人で話していると、きっと言えない多くのことを抱えていたのにそれを表には出さず、マーラを抱き寄せて何も心配は要らない大丈夫だと背を撫でてくれた。
優しく穏やかな性格をしていたが、あんなに強い人だったのだとマーラが本当に理解したのは、彼が帝都軍に殺されたあとだった。
今、こんなところで倒れたら信念のために一人でも戦い続けていた、彼に合わせる顔も無い。
マーラは勇気を引きずり出した。
「行くわよ、マグノリア・バルディオン……ここで死んだりしたら、……貴方は一体、何をする為に生まれたの」
小さな呟きと共にマーラは、力を込めて瞳を開いた。
ライのいたベッドを調べる。上着と荷物。彼女は気づいた。
剣が無い。
(剣だけ持って、出て行った……?)
それが妙なのではない。
全くもって、彼らしい動作だったのだ。
彼は旅の途中同じように上着や荷物は置いて出歩くことはあるが、決して剣は手放さない青年だ。いつもの、平時の彼と何ら変わらない選択。
マーラは周囲の気配に神経を研ぎ澄ましながら、一階へ降りて行った。
家から飛び出すと、風が彼女の髪を大きく揺らした。
「風?」
マーラは空を見上げた。
大きな月。
風のざわめき。
そして、――水の音がする。
動き出した、気配。
闇の中、蠢くもの。
「ライ!」
マーラは呼んだ。
びぃん、と彼女のよく通る声が村に反響する。
「ライ――――ッ!」
バササッ、後方の木々がしなり、黒い鳥が驚いたように飛び立っていく。
マーラは厳しい顔をすると、今度は迷わずに強く一歩、駆け出した。
◇ ◇ ◇
水面に顔が並んで浮かぶ。顔を見合わせ合って笑った。
「良かった。元に戻ってる」
「本当だな」
マーラはブーツを脱ぐと川の中にざぶ、と踏み込んだ。
ライは目を丸くしたがすぐに笑ってしまう。
「安心したか」
「ええ。見て、風も出て来たわ」
言われた通り、ライの頬を風が撫でた。
「……本当だ」
「なんだったのかしらね」
「さぁな」
ライは後ろを向いた。
「そろそろ戻ろう。少し遠出し過ぎた」
「もう?」
「だって……、普通の村だったら、構わないけどな……」
「でも何があっても、貴方が守ってくれるんでしょう?」
ライはマーラの方を振り返る。
彼女は川べりに腰掛けて微笑んでいた。
「……うん」
頷いたライに、ありがとう、と彼女は声を返す。
「……本当にありがとう、ライ。いつも私を守ってくれて……」
「なんだよ、……突然改まって」
「だってこういう時でしか、言えないから。……あのね、ライ……」
「なんだ?」
「……貴方は、いつか、……私の側から、いなくなってしまうのよね」
ライは押し黙った。
どこかの国に仕官するまで。
ライは確かにレジスタンスに身を置く前、そんな風に言った。
「どうせいなくなってしまうなら、今のうちに言っておくわ」
マーラは水の中に手を差し込む。
「私……あなたのことが、好きよ」
ライは目を瞬かせる。
「その顔も、好き。驚いたかお。……私のこと、見つめて来てくれるから」
「……。」
「最初は貴方のこと怒らせてばっかりだったけど、段々と優しい顔で笑ってくれるようになった」
ライはマーラの方にゆっくりと歩いて行った。
「きっと、この世界が平和だったら……一緒にいたかったけど。無理ね。こんな小さな村にまで、こんな悲劇が起こる世の中なんですもの。……皆の期待を裏切って、貴方と一緒に行くなんて、出来るわけない……」
マーラの瞳から、右目だけから、雫が伝い落ちる。
その彼女らしい、ひどく不器用な泣き方に、ライは言葉を失った。
「ごめんなさい……少しだけ、一人で泣きたいの。少しだけでいいから、一人にさせて……」
マーラは立ち上がり、川べりを奥の方へとゆっくり歩いて行く。
ライは一瞬彼女を呼び止めようとして、拳を握りしめた。
俯き、顔を伏せる。
そしてドサ、と予期しない音に顔を上げた。
振り返り、驚く。マーラが倒れていた。
「マーラ⁉」
慌てて駆け寄る。
水の中を横切って、その清らかな水を濁す真紅の一筋に、ライの胸が恐怖に包まれた。
彼は、そんな恐怖を、味わったことがなかった。
そんな予想だにしないこと、
そんな信じられないことを。
「マーラ!」
駆け寄り、彼女を助け起こす。
彼女の胸元が、赤く血に染まっている。
「マーラ! うそだ!」
彼女の身体を揺すったがすでに瞳を閉じて、息絶えた彼女の首がかく、と小さく動いた。
「マーラ‼」
ライは強く目を閉じた。
――その瞬間、目を覚ます。
すぐに見上げたそこに、碧の瞳が二つ瞬いていた。
「ライ?」
大丈夫? 目で問いかけて来る。
「マーラ……」
声が掠れた。
「どうしたのよ。驚かせないで。突然足を踏み外すんだもの……」
ライは左右に視線を振った。
森の中で、地面に倒れている。
「ここは?」
「ここはって……頭打ったの?」
マーラは笑いながら斜面を下りて来る。
彼の側にしゃがみこんで、優しくライの額を撫でた。
「月が綺麗だからって、外に出てきたんでしょう? 貴方のおかげで……少し心が落ち着いたわ」
帰りましょう……そんな風に言ったマーラの手首を、ライは掴んでいた。
自分でも制御出来ないくらいの衝動で彼女を引き寄せ、両腕の中に抱き寄せる。
直前に見た悪夢に心が怯えきっていた。
何故あんな夢を見たのかは分からない。
何かの暗示なのか、予知なのか。
ライは自分の胸に浮かんだこういう不吉な予感や、逆にいい予感もあまり外したことのない人間だった。だから余計その時のライの心は震えていた。
――彼女を失う夢。
「ライ……? どうしたの……震えてるわ」
夢の中で触れた彼女の手の冷たさを思い出して、ライは抱きしめた彼女の身体の温かさと柔らかさに急激に惹かれ、それを強く確かだと感じ取りたくなった。
「あっ、」
ライに押し倒され、マーラは驚いた顔をした。
見開かれた碧の瞳。
綺麗な瞬きに、自分の顔が映ってる。
ライはハッとした。のしかかっていた彼女の身体から、慌てて身を引く。
「ごめん……」
額を押さえて、彼は動揺した。
なんてことを。
「ライ」
「忘れてくれ。今のは、どうかしてた。俺は、君を、」
慌ててとにかく何かを紡ぎ出そうとした唇に、柔らかく触れる。
薄青の瞳が大きく見開かれた。
「……本当なの?」
マーラはライの瞳を覗き込む。
なにが。
彼女は微笑んだ。
「忘れてくれって……わたしは……嬉しかったのに」
マーラはライの額にもう一度キスを落とした。
信じられない気持ちで、彼はそれを受ける。
「だって、貴方は私を、いつも安心させてくれる人だから」
柔らかい手が頬を撫ぜる。
「……こんなに心細い夜でも、わたしは、貴方の顔を見るだけで、こんなに安心できるの」
彼女の優しい声はライの耳に入り込み、脳と胸を震わせた。
「貴方に触れてもらったら、どんなに安心できるのかしら……」
重なる言葉と共に唇が再び触れる。
ライは声を上げたい衝動の代わりに、自分からマーラに口付けていた。
あれほど躊躇ったはずなのに、もう一度、彼女を後ろに押し倒す。
柔らかな草が鳴った。
口付けながらマーラの身に纏う衣服に手を掛けて、急くような手つきで押し広げて行く。
ライ。
熱を帯びた彼女の声が自分を呼んでくれる。
「好きよ」
俺もだ、ライは返していた。
熱い呼吸で、上手く言葉にはなっていなかったけど。
視界に入って来たマーラの嬉しそうな、頬を紅潮させた顔に子供みたいに胸が高鳴った。
「わたしをあなたのものにして」
額に優しい唇で触れられながら、ライは頷いた。
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