第9話【目覚め始める悪意】




      


 ライは目を覚ました。

 隣の気配が五月蝿かったので、何度か目は覚ましていた。

 だからライは、別段その覚醒が不思議だとは思わなかった。

 目を覚まし視線を周囲に向けると、ドキリとした。

 部屋の入り口にマーラの姿があったのだ。彼女はそこで、優しく微笑んでいる。


「……マーラ?」


 碧の瞳が瞬く。

 ライはホッと息をついた。

「驚いた。夢かと思って……どうしたんだ?」

「ギルノ、眠ってたわよ」

 ライは振り返る。大男の姿がない。

「あいつ……!」

「飛び上がって驚いて、必死に謝ってたわ」

 くすくすとマーラは笑っている。

「ちょっと目を覚ます為に、夜風に当たって来るって」

「……。……君は眠れないのか?」

「……少し眠ったけど、そうね、……本当は、ちょっと心細かったのかも。貴方の顔見ていたら、少しだけ安心した……」


 ライは驚いた。

 マーラが心細いなどと口にしたことは一度もなかったし、自分の顔を見たら安心するなどと言われたこともなかった。だが、眠りにつく前に見たひどく優しいマーラの顔が思い出されて、ライは頬を赤らめた。


「……珍しいな」


「え?」


「君が心細いなんて言うのは。確か、……初めてなんじゃないか?」


 そうだったかしら。

 マーラは首を傾ける。サラ……と彼女の長い茶色の髪が肩から胸の方へ流れ落ちた。

「ごめんなさい」

 ライは首を振る。

「別に非難したわけじゃない。いいんだ。……君だって、たまにはそうやって、……本当に怖い時は」


「月がね、」


 マーラは窓の外を指差した。


「……とても綺麗なの。こんな日なのに、どうしてかしら」


 ライは毛布から抜け出し、寝台から下りた。

「ライ?」

「……少し外に出るか。夜風に当たれば、君も眠れるかもしれない。付き合うよ」

 マーラは綺麗な瞳を瞬かせて、微笑んだ。

「ありがとう、ライ」


 ライは上着だけ脱いだ姿だったので、そのまま剣だけを腰に挿した。

 マーラも同じような姿だ。

 ただ、彼女は帯剣をしていない。

 彼女は旅の途中、どんなに一瞬だろうと眠る以外の時は剣を外さない。

 だから非常に珍しい無防備な姿だったが、その時に彼女は剣を置いて来たのだということを思い出してライは納得する。

 向かいの部屋の扉は閉まっていた。何があってもすぐに分かるよう、部屋の扉は開いていたのだが。

「テサは、安心して眠ってるみたい」

「そうか……良かったな」

「ええ。悪夢にでも魘されていたら……とても可哀想だもの」

 ライの手を、マーラが取った。

「こうしてると、なんだか安心できる」

 彼女は言った。

「だから、少しの間、こうしていてもいい? ライ」

 その言葉も、普段の彼女を知るライはひどく驚いたのだが、すぐに彼は優しく笑んで、細い手を握り締めた。帝都兵相手には勇敢に戦えても、こんな何が起こってるかも分からない魔術的な問題ではマーラも不安に思って当然だった。


 彼女の手はひやりとしていた。

 その感触に、この夜に少しだけ怯えたマーラの心を見た気がして、ライは力を込めた。

 そうすることで、彼女を心から、安心させてやりたかったから。






   ◇   ◇   ◇






 ギルノは走っていた。息を切らして、左右に視線を走らせる。

 飛び出した木の枝が頬を叩いた。

「くそ!」

 脚を止める。

「畜生……なんだよ、これは……」

 眠気を覚ます為に外に出ると、ギルノは誰もいないはずの村に人影を見た。

 一瞬過ったその影に心が掻き乱され、追って来たのだ。

 影はギルノがいくら全速力で駆けても、追いつけなかった。

 しかし完全に見えなくなることも無く、彼との一定の距離を保ったまま逃げて行く。


 気づいた時には、森の中にいた。


 駆け続けていて、そのうちに、ギルノはぎくりとした。

 樹の根が深く張る、森。いつの間にか景色が変わっていた。

 この森は、見覚えがある。

 というよりも、忘れるはずもない。

 何故ならこの森は彼が少年の頃から、駆け回って遊んだ場所だったから。


 しかしギルノの胸には郷愁だとか安堵感だとか、そんなものは浮かんで来なかった。

 動悸が、自然と早くなって行く。


 何故自分がここにいるのか。そんなはずはない……。


 ギルノは気づいた。

 見覚えのある景色。見覚えのある道。見覚えのある自分の足取り。

「……やめろ、」

 呟く。

 森の深い茂みを掻き分け、見えて来る。

 顔に吹き付ける、熱風。

 目の前に打ち上がった火柱。

 ギルノはハッと息を飲む。


「畜生、止めろ!」


 彼は叫んだ。

 駆け出した先に広がる光景。

 すでに命ある者の気配を絶ったその、器だけが街を徘徊する。

 闇の影のように。


 逃げ回る人々を追い、火を付けている。悪鬼の行軍。


 人の形のまま燃えて苦しみにのたうち回る人々はやがて地に倒れ動かなくなったが、完全に動かなくなると程なくしてゆらりと、おぼつかない足取りで立ち上がった。

 うめき声のようなものが聞こえる。

 それはすでに人間の声ではなく、魔物の唸り声の方に近いものだった。


「オレフ……」


 ギルノは、昨日まで笑い合っていた友の名を呼んだ。

 こんなしけた村で貧乏百姓暮らしはしていられないと、大きな町で護衛の仕事にでもつくんだと彼はいつも話していた。金を貯めて大きな都市に行きそこに自分の家を持つ。それが彼の夢だった。


「オレフ!」


 魔物の声を上げて友の、形をしたものが、飛び掛かって来る。


 身を守る為に投げ飛ばそうと掴んだその、黒ずんで変わり果てた腕に大きな傷を見つけてギルノは狼狽した。


 その傷は友が少年時代村の男の仕事である、隣町へと荷を送りに行った時、魔物に襲われたギルノを助けるために負った傷だった。

 ギルノの身体にも同じように村を襲った魔物を撃退しようとした時に、友を庇って出来た傷がたくさんある。

 そうやって代わりに傷を負いながら、助け合いながらずっと小さい頃から生きて来た。


 危機感は感じたのに、剣でなぎ払えなかった。


 隙を見せたギルノの肩に、深い痛みが走る。

 牙を打ち込まれた瞬間ぞわと背に悪寒が走った。

 それは感情論とは全く違う、生存本能から出たものだった。


「やめろっ!」


 友の身体、友の身体だったものを打ち払い、首に手を当てる。手の平が血で濡れた。

 唸り声が左右で上がる。

 どこを見ても、その顔に見覚えがあった。



「くそおおおお! やめろ――ッ!」



 ギルノは無我夢中で剣を振るった。


 炎の中をいつの間にか、追っていたものが、追われている。


 燃え上がる村の家々。

 ギルノは炎から逃れ、村から続くなだらかな草原を息を切らして走った。

 脚を取られ、転がるように斜面を落ちる。

 倒れ込んで、ギルノは呻いた。

 拳を地面に叩きつける。

 渾身の力で、何度も。


「もうやめろ……」


 振り返ると、村が燃え落ちて行くのが見えた。

 ギルノの額から汗が伝い、眦に吸い込まれ、それは涙に変わって頬を伝い落ちた。


「……燃えて行く……、俺が、」





「そう。あの炎をつけた」





 ギルノは振り返った。

 風の吹き抜ける草原に、彼女は立っていた。

「……、」

 唇は彼女の名を象ったが、声にはならなかった。

 彼女はギルノの瞳を、灰色の瞳でじっと見つめている。

「どうしてなのお兄ちゃん……」

 彼女がゆっくりと、草を踏み分けて、歩いて来る。


「……わたしはまだ……生きていたのに」


 小さい妹。

 故郷にはほとんど未練が無かったが、年の離れた幼い妹が自分を慕ってくれるのが嬉しくて、時折会いに帰った。

 呆然とそこに立ち竦んだギルノは妹の問いかけには答えられず、やがてゆっくりと膝をついた。


 こんな場所に彼女がいるはずないのは分かっているのに、何かがおかしいのは分かっているのに、問いかけてくる幼い妹の姿に逃げ出すこともはぐらかすことも出来ず、追い詰められることしか出来なかった。


「お兄ちゃん……」


 少女は地に成す術もなくしゃがみこんだギルノを、腰を屈めるようにして抱きしめ、包み込んだ。

 幻ではなく、温かさまで感じた。

 思わずギルノは彼女の身体を両腕で抱きしめる。

 自分とは違う小さな体。

 叱られることに怯える子供のように、ギルノは彼女の身体に縋った。

 自立心が若い頃から強かったギルノは、早くに村を出ていた。

 立派に生活し家に仕送りをしていたわけでもなく、自分勝手に生きていたのだ。

 ある時深い意味も無く、近くに立ち寄ったという理由で気まぐれに故郷の村に戻ると、親は流行病ですでにどちらも死んでいて、それを知った時も涙は出なかった。

 なんだそうなのか、と思っただけだ。


 ……ただ、他所に預けられた幼い自分の妹がいると聞いて、そんなことは露程も知らなかったギルノは見に行ってみた。


 彼は少年時代兄弟がおらず、ずっと一人だったので、そういうものが一人でもいればまた面白かったのになあと思っていたからだ。友人が、妹を教えてくれた。

 今まで何もしてやれなくてきっと憎まれてると思っていたのに、自分が兄だと分かると妹は貴方が私のお兄ちゃんなの? と目を輝かせて嬉しそうに笑いかけてくれたのだ。


 恨み言の一つも無く、フラフラ旅をしてると言うと別に素晴らしい冒険譚などでは全くないのに、いつも楽しそうにギルノの話を聞いてくれた。彼女を知ってから、時々土産を持って村に戻るようになったのだ。

 何故か妹の顔を見ると、自分にはこの世にまだ家族がいるのだと嬉しく思うことがあった。

 それは初めからあったものではない。


 ある日出来た、自分の宝物だった。


「お兄ちゃん、やっと戻って来てくれたのね」


 待ってたんだよ。

 小さい妹が優しく笑いかけてきた。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る