番外編1-1:記録係

――昼休み、2年A組の教室。

窓際の最後列で背を丸める僕――アスマは、今日も黒革の手帳を開いた。細かな罫線に沿って万年筆が走るたび、インクの青が静かに滲んでいく。


4月12日 昼食時

S──購買でパン3個

T──受取時、0.7秒の躊躇

→情動的接触の継続。距離はまだ断絶に至らず。


ページの端に小さく赤ペンで矢印を引き、余白に〈要追加観測〉と記す。

書き終えた瞬間、胸の内側が冷える――そこに“侵入者”の影。


(また来る……あの圧力が)


額に汗。視界の端がしゅっと狭くなる。耳の奥で心臓がやけに大きく響いた。

抗おうとする意思を嘲笑うように、何かが脳を下から押し上げる。


「――はぁ……」


吐息が勝手に漏れ、身体が立ち上がった。机の引き出しに隠していた“それ”――女子制服のブレザーと紺のプリーツ。指先が迷いなく布をつかむ。


(やめろ、僕は男だ。着たくない……!)


足だけが校舎裏の倉庫へ向かう。薄暗い覗き窓から差す光が埃を浮き彫りにし、古びた鏡が壁に立て掛けられていた。


制服を突き当てた瞬間、指が震えた。

ボタンをかける。白いブラウスの首元、リボンタイ。

最後にスカートを履くと、生暖かい空気がふわりと脚を撫でる。


「着たくないのに……っ」


喉が詰まり、涙が滲む。だが着替えは止まらない。

鏡の正面に立つ。中性的な短髪――長さは変わらない。でも肌艶は確かに女のもの。


「ボクは……僕じゃない」


唇が勝手に色を欲しがり、ポケットからリップグロスが現れる。

うっすら塗っただけで輪郭が柔らぎ、声の高さが半音変わった。


――コツン、と内側でスイッチが入る感覚。


「……アスミ、報告の準備を」


舌が滑らかに別の一人称を選び、抑揚を変える。

胸奥に潜んでいた“彼女”が水面に顔を出し、僕の外殻を乗っ取る。


瞳孔がわずかに開き、視界が明るくなる。

万年筆を握り直した指は、男のときより細やかに踊り始めた。


「――対象T、本日も視線の揺らぎ確認。Sに対し、0.3秒の目礼。一方、Sは同時刻に笑みを返さず。距離、昨日比マイナス1.2メートル」


声は囁きにも似た高さ。倉庫の静寂に記録の響きだけがこだまする。

報告は五分で終わった。だがアスミの時間は終わらない。

彼女は微笑み、スカートの裾を整える。


(やめてくれ……僕に戻せ)


内側で叫ぶが、届かない。返事のかわりに、甘い陶酔が脳に滴り落ちる。

「観測体であるボクは喜びに満たされている」――そんな幻聴さえする。



チャイムが鳴り終える頃、男子制服に戻った僕は教室へ滑り込む。汗が乾かぬ首筋を襟で隠した。だが気配を悟ったか、前列の男子が振り向く。


「アスマ、お前さ、最近やけにセイとタカトの周りうろついてね?」


背骨を氷柱が走る。


(まずい……バレる……!)


けれど口元は自然に笑みを作った。


「気にしすぎ。ほら、あいつら目立つし。スクープ狙いだよ、スクープ」


冗談めかして肩を竦めると、教室はいっとき笑いで緩んだ。

だが内側の恐怖は消えない。手帳がポケットで熱を帯びる。



放課後。夕日の射す倉庫で、再び女子制服が僕の手に吸い寄せられた。

同じ手順、同じリップ。鏡の中の“彼女”は、穏やかに微笑む人形のよう。


「報告を……続けます」


インクの匂いが倉庫に満ちるころ、夕日が窓枠を朱に染める。

何ページもの観測ログが増えていく。その一行一行が、まるで針金のように僕の自我を締めつける。


(お願いだ……誰か、気づいてくれ。僕は僕でいたい。ボクじゃなくて……)


祈りは空転し、アスミの口元にだけ静かな満足の弧が浮かぶ。

やがて倉庫の扉が閉まり、薄明かりの廊下に足音が遠ざかっていった。


その足音が、僕なのかボクなのか――

もう、判別できなくなりつつあった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る