番外編1-2:境界線の下で
昼休み。
春一番が植え込みの影を揺らすグラウンドの端で、僕――アスマは校舎の三階を見上げていた。
窓際には、いつものようにセイとタカト。互いに背を向けるでもなく、寄り添うでもなく、ただ“同じ窓枠”を共有している。
それを確認しただけで、胸の奥に冷たい杭が刺さる。
(まただ。視線が勝手に吸い寄せられる……僕は監視なんて望んでない)
ポケットの中で拳を握る。けれど、耳の奥に“ノイズ”が湧き上がり、脳の表面をざわつかせた――まるで、真空管が軋むような不協和音。
(来る……!)
額から嫌な汗がにじんだ瞬間、甘い女声が意識の内側に滑り込む。
『アスミ。報告の時間よ』
囁きはハチミツのように滑らかで、氷刃のように冷たい。“命令”と理解するより早く、身体が勝手に動く。校舎の死角――体育倉庫裏のわずかなスペースへ足が向いた。
踏み出すたびに、太ももを撫でる布の感覚。はっと見下ろせば、紺のプリーツスカートが風に揺れている。
(いつの間に……? さっきまで男子制服だったのに!)
指先はリボンタイを整え、爪の先で頬をそっと撫でて光沢を確かめる。鏡代わりの窓に映るその顔は――短髪のままなのに、目尻が柔く、唇の色がやや濃い。“僕”ではない。“ボク”だ。
「……アスミ、報告の準備を」
口が勝手に言葉を紡ぐ。声の高さも滑らかさも、僕の意思を置き去りにして。
「報告します――対象Sは十時四三分、購買でコーヒー牛乳を購入。Tへ無言で差し出すが、Tは受け取らず。心理距離は先週比プラス四十センチ。十一時四六分、Sが“また同じ夢を見た”と発言。Tは『そういうの、気持ち悪い』と返答。Tの記憶回復を示唆――」
僕の内側で“僕”が叫ぶ。やめろ、と。だが声帯は彼のものじゃない。
『タカトの記憶が戻りつつあるのね。詳しく。彼は夢で何を見たと言ったの?』
テレパシーの声が脳髄を撫でるたび、思考が薄膜の向こうに遠ざかる。
僕はまるで紙人形。糸を引かれ、首をかしげ、台詞を読む。
報告が終わると、甘い声は微笑を含んだ吐息になる。
『よくできたわ、アスミ。あなたは私の最高の記録係。――あのふたりが壊れる瞬間まで、続けなさい』
ぶつり、と通信が切れる感覚。霧が晴れ、強い風がスカートを煽る。
植え込みの影で膝を抱えた“僕”は、男でも女でもない声で喘いだ。
「……っ、僕は……何してた?」
制服の裾に触れた指が震える。ついさきほど口にした報告内容が、ぼやけて思い出せない。記憶は砂の城のように崩れ、ただ“恐怖”だけが形を残す。
「いやだ……これ、いやだ……!」
声が裏返り、頬が熱くなる。涙ではない。自分自身が分子レベルで解体され、別人に組み替えられていく錯覚に眩暈がする。
◆
翌朝。教室の喧噪。男子制服の僕は、昨日のことを夢かと思いかけた。
だが、机の中に手を伸ばすと証拠が残る――黒革の手帳。ページのインクは深い蒼。
4月13日 S→T 接触失敗
T、Sの呼びかけに眉をひそめる
心理的距離、計画通り拡大中
文字は見覚えのない丸みを帯びていた。
自分の手書きなのに、自分の書体じゃない。アスミの筆跡。
(本当に……僕が? それとも“彼女”か?)
視線を教室の後方に送る。タカトは窓辺で無言のまま頬杖をつき、セイは教科書を開いたままページをめくれずにいる。二人のあいだには、昨日よりも遠い沈黙。
(僕が……報告したから? 僕のせいで、距離が開いた?)
確証はない。だが胸の奥に巣喰う罪悪感は、否定しても消えない。
ふと指先に残ったリップの微かな香り――いつ塗った? 思い出せない。
(お願いだ、誰か、気づいてくれ……僕を“僕”に戻して……)
祈りは机の木目に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
放課後のチャイムが鳴る頃、僕の足はまた倉庫裏へ向かうだろう。
そしてスカートを穿いた“ボク”が、満足げに手帳を開く――。
見えない鎖が、さらに深く、音もなく締まりつつあった。
(つづく)
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