第2話:歪みの始まり

春の陽射しが教室のガラス窓から差し込み、ホワイトボードに淡い反射を落としていた。


「――じゃ、今日のホームルームはこれで終わり。放課後、部活あるやつは遅れんなよー」


担任の一言を皮切りに、教室内がざわつく。椅子を引く音、笑い声、荷物をまとめる音。その喧騒の中で、タカトは何気なく隣の席に目をやった。


セイが静かに教科書をカバンにしまっている。整った顔立ちに、銀縁のメガネ。物静かで冷静沈着、誰に対しても公平な彼は、男女問わず人気があった。


「なあ、セイ。今日、寄り道してかね?」

「いいけど。どこ行くつもり?」

「いや、特に決めてねーけど。なんとなく、さ」


セイは少しだけ笑って、「じゃあ、図書館にでも寄る?」と提案する。その横顔を見つめるタカトの胸の奥で、何かがかすかに揺れた。


言いようのない感情だった。懐かしさと嫌悪が入り混じったような、ちくりとする痛み。


(――なんだ、これ)



下校の途中、ふとしたタイミングでセイがトイレに立ち寄った。タカトは校門の前で一人待つことになった。


そのとき、ふわりと意識が遠のいた。


気づけば、制服のスカートが風に揺れていた。違和感はなかった。むしろ自然だった。白いシャツの胸元が、ほんの少し膨らんでいる。長い睫毛が目に入ったとき、彼女は鏡がないことに一瞬だけ戸惑い、すぐに思い直す。


「アタシ……ここで、何してるんだっけ?」


口から漏れた声は高く澄んでいて、けれど不自然ではなかった。彼女――“タカネ”は、誰にも気づかれないようにそっとベンチに腰を下ろすと、無意識のうちに、セイのいた場所に目を留めていた。


(あの子……セイ。なんでだろ、見てると胸がざわつく)


その視線には、嫉妬とも言えない、得体の知れない憎しみが宿っていた。



「お待たせ」


セイが戻ってきた。次の瞬間、タカトははっとして、自分の身体を見下ろした。ズボンの制服。腕の筋肉。男の姿。


「……?」


意識が混乱する。時間が飛んだような感覚。セイが訝しむ様子も見せずに横を歩き出すのを、タカトはぼんやりと追いかけた。


「なあ、オレ、さっき……」

「ん?」

「いや……なんでもねぇ」


言いかけて、やめた。

タカネの存在を、タカトは知らない。だが、確実に“そこ”にいた。彼の中にいる、もう一人の存在。彼女は、セイがいない時にだけ姿を現す。そう暗示されていた。



――夜、自宅のリビング。


「タカト、明日お弁当いる?」


母の問いかけに、タカトは反射的に「いらない」と返した。理由は自分でも分からない。誰かと食べるのが億劫だった。



――深夜。

眠っているはずの彼の顔が、一瞬だけ微かに笑った。どこか艶めかしく、女のような表情だった。


「アタシ……また出てきちゃった。フフ」


誰もいない部屋で、女の声が小さく囁いた。



翌朝。教室でタカトが自分の机に座ると、誰かがノートのページを破いて机に置いたのに気づいた。

そこには、こう書かれていた。


【セイはあなたのこと、ただの便利屋だって言ってたよ】


タカトはその文字を見て、眉をひそめた。


「――は?」


だが、それが誰の仕業なのか、彼には見当もつかなかった。


(いや、それ以前に……何かが、おかしい)


机の下で、彼の手がかすかに震えていた。残るのは、ペンの重みと、その動きをなぞった記憶。書いたのは、まさか……?


(俺、なのか……?)


そして、その“自分”は、タカト自身だとは思えなかった。



ナナカは、高層ビルの窓辺で夜景を見下ろしていた。遠くでまた一つ、街の灯りが瞬いた。


「順調そうね……“タカネ”」


闇の中で、銀のペンダントが鈍く光る。


「壊してしまえばいいの。少しずつでいい。気づかれないように、静かに。やがて、アナタは“タカト”を凌駕する。セイが何を思っても、抗うことなんてできない。だってアナタは、“壊すために”生まれたのだから」


夜が、深く、濃く、静かに包み込んでいった。


(つづく。)

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