タカトとセイ編

第1話:眠りの先にあるもの

灰色の雲が低く垂れ込める空の下、廃工場跡に金属音がこだました。

割れた窓、ねじ曲がった鉄骨、焦げ跡の残る床。ここが今日の戦場だった。


「――囲まれてるな、これは」


真辺タカトは、背後から迫る気配に振り返り、汗をぬぐった。額に流れる血は、かすり傷にしては深い。彼の制服の袖は破れ、膝には泥と油がこびりついている。


眼前にはHYPの戦闘員たちが立ちふさがっていた。黒い装束に身を包み、仮面で顔を隠す彼らは、魔導を操る違法集団。MtMの戦闘員であるタカトにとって、倒すべき敵だった。


「――全員、まとめて相手してやるよ」


膝を曲げ、低く構える。タカトはスポーツ万能で、身体能力は同世代の中でも突出していた。格闘術と魔導を交えた戦法は、これまで多くの敵を制してきた。だが今日は、妙に身体が重い。空気がまとわりつくような感覚。油断だったのかもしれない。そう思った次の瞬間――。


「ふふ……アナタ、本当に綺麗な瞳をしているのね」


声がした。女の声。響くようで、耳元で囁かれるようでもある。どこか甘く、しかし冷たい。振り返ると、そこにいたのは、一人の女だった。

黒く長い髪。整った輪郭。深い紫の瞳。その瞳に、ぞくりとした。真っ直ぐに見つめられるだけで、思考が曇っていくような感覚。


「――誰だ、お前」

「私は闇野ナナカ。HYPの催眠術師よ。もっとも、ただの催眠術師じゃないけれど」


ナナカは一歩、また一歩とタカトに近づいてきた。タカトは反射的に後退したが、次の瞬間、視界が揺れた。足元に刻まれた魔導陣。それが青白く光を放ち、空気を震わせる。


「――しまった、結界か……!」


逃げ場はなかった。魔導結界の内側では、空間が歪み、通常の魔力操作が著しく制限される。タカトの動きも鈍る。その隙を、ナナカは逃さなかった。


「アナタには、眠ってもらうわ。アナタが眠りに落ちれば、眠っていた者が目を覚ますの」

「なっ……」


ナナカが手にしていたのは、銀のペンダント。それは古びていながらも、不思議な光沢を放っていた。表面には小さな魔導文字が刻まれている。


《導きの鍵》


その文字を見た瞬間、タカトの脳裏に、言葉にならない“何か”が流れ込んだ。


「アナタは、眠って……私の声だけを聞くの。アナタの中の、新しい“オンナ”が、目を覚ますために――」

「く、そ……おれは……っ!」


抗う。しかし視界が狭まる。重力が増したように体が地に引きずられる。まぶたが熱い。心臓の鼓動が徐々に遅くなる。


「――アナタは、“タカネ”になる。そしてセイを、壊すのよ」


その名前が出た瞬間、タカトの意識は、深い闇に沈んでいった。



目を覚ますと、そこは見慣れた自室だった。机の上には教科書、スマホ、未開封のジュース。窓から差し込む陽光は眩しく、現実味を帯びていた。


「――夢?」


自分の身体に触れる。手、腕、胸。何も変わっていない。男のまま。

だが、何かが――違う。

身体の奥底に、重たいしこりのようなものが残っている。


タカトは鏡の前に立ち、自分の目を見つめた。深い闇の中で何かを見た気がする。けれど、それが何だったのか、思い出せない。


「――セイ」


思わず親友の名をつぶやく。斎川セイ。自分と正反対で、頭が良くて、静かなヤツ。いつも自分を助けてくれる、大切な友人。


――壊す、という言葉が頭をよぎった。


「――なに、考えてんだよ、俺……」


笑って誤魔化そうとしたが、胸の奥に棘が刺さったような痛みが残っていた。

そのとき、部屋のドアがノックされた。母親の声がした。


「タカト、ご飯できてるわよー」

「――ああ、すぐ行くよ」


タカトは自分の顔に、無理に笑顔を貼りつけた。そして知らないふりをすることに決めた。あれは夢だった。全部、夢だったんだと。


――しかし、それはナナカの仕掛けた巧妙な罠だった。


彼の中には、すでに“命令”が埋め込まれていた。セイが傍にいないときだけ、発動するように。やがて、それは確実に形となって表れ始める。


そして、“タカネ”が目を覚ます日が、静かに近づいていた。


(つづく)

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