第3話:ささやきの影
その日、タカトはなぜか朝から目の奥が重かった。眠りは浅く、何度も目を覚ましては時計を見つめ、また瞼を閉じていた。
(夢……見てた気がする。けど……思い出せねぇ)
微かに残る感覚だけが、心の奥にまとわりついて離れない。あたたかくて、柔らかくて、でもどこか、冷たい指先。
◆
――登校中の道。
いつもと同じ時間、同じ景色。だけど、そのすべてが少しだけ色褪せて見えた。
「おはよう、タカト」
セイの声が後ろからかけられると、タカトは一瞬遅れて振り向いた。声の響きが、妙に遠く感じた。
「――おう。今日も早ぇな」
「昨日も寄り道したしね。たまにはちゃんと来ないと」
セイは変わらない。いつものセイだ。でも、その笑顔を見つめるタカトの視線が、どこかぎこちない。
(……何だよ、これ)
心の奥で、もう一つの声がささやいていた。
『あのコの笑い方、気に入らない』
タカトは立ち止まり、頭を軽く振った。自分の思考じゃない。けど、確かに“聞こえた”。
◆
教室に着いて席に座ると、机の上にはまたしても紙片が置かれていた。昨日と同じ、ノートを破いたような紙。そこには、こう書かれていた。
【便利屋には、感情なんていらない】
「――チッ」
昨日のとは違う筆跡。けれど、同じ誰かの“意図”を感じさせる。セイは何も言っていない。そんなことを言うようなやつじゃない。わかっているのに、タカトの中の何かがそれを信じさせようとしていた。
(これって、誰の仕業だ……)
いや、誰の意図だ?
まるで、自分が――もう一人の自分が――仕組んだような。
◆
――昼休み。
タカトはいつものように弁当を持たず、購買でパンを買って中庭に出た。そこには、偶然か、セイもいた。二人はしばらく無言で並んで座っていた。
「最近、どうした?」
ふいにセイが言った。声は優しかったが、どこか探るようでもあった。
「何かあったのか?」
「いや、別に」
とっさに返したが、喉が渇くのを感じた。なぜだか、このまま何も言わないとセイに見透かされそうだった。
(でも、何を話せばいい? “知らない自分がいる”とか、そんなの……)
そんなとき――
『――今、セイのこと見て笑ってた』
誰かが、小さくそう言った。
振り返っても、誰もいなかった。風が枝を揺らしただけ。幻聴だと、自分に言い聞かせる。
けれど、その声は――女の声だった。
◆
――その夜。
タカトは、まるで呼ばれるように、机に向かいノートを開いた。ボールペンを取り、ページに文字を走らせる。
【セイは、アタシを知らない】
【でも、アタシはセイを知ってる】
【あの目が嫌い あの声が気に入らない あの笑顔がうざったい】
【それでも――】
ペン先が止まる。長いまつ毛が、月明かりに揺れる。
「それでも、セイのこと、気になっちゃうの」
その声は女のものだった。タカネが、鏡のない部屋で笑った。ほんのり紅く染まる頬。指先には、ペンの感触がまだ残っている。
彼女は、確かに“そこにいた”。
◆
ナナカは静かに、書き換えられていくノートを見つめていた。闇の中、ペンダントがまた一度、鈍く輝く。
「さあ、“歪み”を育てましょう。アナタがアナタである限り、どこまでも深く」
月が雲に隠れた。
夜の帳が、彼らの運命をゆっくりと、飲み込んでいく。
(つづく)
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