第3話:ささやきの影

その日、タカトはなぜか朝から目の奥が重かった。眠りは浅く、何度も目を覚ましては時計を見つめ、また瞼を閉じていた。


(夢……見てた気がする。けど……思い出せねぇ)


微かに残る感覚だけが、心の奥にまとわりついて離れない。あたたかくて、柔らかくて、でもどこか、冷たい指先。



――登校中の道。

いつもと同じ時間、同じ景色。だけど、そのすべてが少しだけ色褪せて見えた。


「おはよう、タカト」


セイの声が後ろからかけられると、タカトは一瞬遅れて振り向いた。声の響きが、妙に遠く感じた。


「――おう。今日も早ぇな」

「昨日も寄り道したしね。たまにはちゃんと来ないと」


セイは変わらない。いつものセイだ。でも、その笑顔を見つめるタカトの視線が、どこかぎこちない。


(……何だよ、これ)


心の奥で、もう一つの声がささやいていた。


『あのコの笑い方、気に入らない』


タカトは立ち止まり、頭を軽く振った。自分の思考じゃない。けど、確かに“聞こえた”。



教室に着いて席に座ると、机の上にはまたしても紙片が置かれていた。昨日と同じ、ノートを破いたような紙。そこには、こう書かれていた。


【便利屋には、感情なんていらない】


「――チッ」


昨日のとは違う筆跡。けれど、同じ誰かの“意図”を感じさせる。セイは何も言っていない。そんなことを言うようなやつじゃない。わかっているのに、タカトの中の何かがそれを信じさせようとしていた。


(これって、誰の仕業だ……)


いや、誰の意図だ?

まるで、自分が――もう一人の自分が――仕組んだような。



――昼休み。

タカトはいつものように弁当を持たず、購買でパンを買って中庭に出た。そこには、偶然か、セイもいた。二人はしばらく無言で並んで座っていた。


「最近、どうした?」


ふいにセイが言った。声は優しかったが、どこか探るようでもあった。


「何かあったのか?」

「いや、別に」


とっさに返したが、喉が渇くのを感じた。なぜだか、このまま何も言わないとセイに見透かされそうだった。


(でも、何を話せばいい? “知らない自分がいる”とか、そんなの……)


そんなとき――


『――今、セイのこと見て笑ってた』


誰かが、小さくそう言った。

振り返っても、誰もいなかった。風が枝を揺らしただけ。幻聴だと、自分に言い聞かせる。

けれど、その声は――女の声だった。



――その夜。

タカトは、まるで呼ばれるように、机に向かいノートを開いた。ボールペンを取り、ページに文字を走らせる。


【セイは、アタシを知らない】


【でも、アタシはセイを知ってる】


【あの目が嫌い あの声が気に入らない あの笑顔がうざったい】


【それでも――】


ペン先が止まる。長いまつ毛が、月明かりに揺れる。


「それでも、セイのこと、気になっちゃうの」


その声は女のものだった。タカネが、鏡のない部屋で笑った。ほんのり紅く染まる頬。指先には、ペンの感触がまだ残っている。


彼女は、確かに“そこにいた”。



ナナカは静かに、書き換えられていくノートを見つめていた。闇の中、ペンダントがまた一度、鈍く輝く。


「さあ、“歪み”を育てましょう。アナタがアナタである限り、どこまでも深く」


月が雲に隠れた。


夜の帳が、彼らの運命をゆっくりと、飲み込んでいく。


(つづく)

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