第2話:裂け目の気配
――東京都・私立翔影高校、校舎裏。
昼休みの校舎裏は、喧騒から少し外れた静かな空間だ。
グラウンドの歓声が遠くに響いている中、イツルはベンチに腰掛け、缶コーヒーを傾けていた。
「やっぱ、どこか変だ……」
自分の身体に触れても、声を出しても、普段通りだ。だが、内側に小さなノイズが走る。目を閉じると、女のような声が脳内で微かに反響する時がある。
『イツミ……』
そんな名前、知らない。だが、確かに聞こえた。自分の中に、“赤の他人”の名前が染み込んでいるような感覚。
「アイツの、仕業か……?」
逃げられたと思っていたあの廃ビル。だが、彼女があっさりと手放すはずがない。なぜ逃げられたのか――その理由が、むしろ恐ろしい。
(まさか……、すでに仕込まれてる?)
「イツル!」
反射的に振り向くと、リョクが手を振りながらやって来た。短く整えられた茶髪に、陽の光が反射する。どこにでもいる高校生――だが、その笑顔の裏に、いつも鋭い観察眼を隠している男だ。
「また一人で昼飯かよ。たまには購買一緒に行こうぜ」
「――なんか今日は、騒がしくてな」
イツルは誤魔化すように微笑む。リョクの隣にいると安心する一方で、心のどこかで警鐘が鳴るようになっていた。リョクに知られたくない“何か”が、自分の中にあると、無意識に感じている。
「おまえ、最近ちょっと変だぞ」
「――変?」
「うん。いや、別に悪い意味じゃないけどさ。目が泳いでたり、話の途中でぼーっとしたり、あと……」
「あと?」
リョクは口をつぐんだ。そして、缶ジュースのプルタブを開けながら言った。
「――夢、見てるだろ」
「……!」
その一言に、イツルの背筋がぞわりとした。
「どうして、そう思う?」
「――顔に出てんだよ。なんつーか……怖い夢、見てるやつの顔してる」
イツルは返事をしなかった。ただ、視線を落として考える。
(夢……じゃない。あれは現実だった)
彼女の声、冷たい鉄の檻、そして、懐中時計の揺れ――。意識が薄れていく中で、自分が変えられてしまうという恐怖。あの記憶は確かに、夢じゃない。
しかし、それを証明するものは何もない。ただ、自分の内側で、何かが“待っている”。
◆
放課後の教室は、机の片付けや雑談で賑わっていた。イツルはぼんやりと窓の外を見ていたが、視界の端で、ふと違和感を覚えた。
(……ん?)
制服の裾が、妙に短い。シャツのボタンのかかりも、いつもと違うような……。
(いや、そんなわけ……)
だが、感覚は確かだった。まるで、自分の服が“女子用の制服”にすり替わっているかのような、微細な違和感。それを意識した瞬間――
視界の端が、滲んだ。
(なんだ……?)
胸が締め付けられるように痛む。そして、頭の中に彼女の声が響いた。
『――イツミ。さあ、あなたの出番よ』
ガタンッ!
思わず立ち上がり、机を倒してしまった。
「おい、イツル!?」
リョクが慌てて駆け寄ってくる。
「――だいじょうぶ。なんでも、ない」
イツルは、笑顔を作った。だがその裏では、指先が震えていた。
(ダメだ……、本当に、何かが始まってる)
◆
――帰宅途中の路地裏。
イツルは誰にも言わず、帰り道を遠回りしていた。繁華街から外れた、人気のない裏通り。人目を避け、電柱にもたれかかるようにして深呼吸する。
(落ち着け。深呼吸……)
だが、その瞬間。制服のポケットから、コトン、と何かが落ちた。
「……?」
しゃがんで拾い上げる。小さな、金属製の細い針。見覚えがない。
けれど、手に取った瞬間――
――ズシン。
視界が傾く。鼓動が一気に早まる。
そして、内側から沸き起こる“衝動”。
(あれ? なんで、俺……)
無意識のうちに針を強く握りしめていた。その瞬間、頭に浮かんだのはリョクの顔――そして、その首筋だった。
首筋へ、この針を突き刺す――そんな光景が、まるで“当然の任務”のように脳裏に焼き付いていた。
(違う!俺はそんなこと……!)
叫びたくても、声が出ない。イツルの意識が“もう一人の自分”に乗っ取られていく。まるで、別人格のように冷たく、無表情な少女のような心が、彼を内部から蝕んでいく。
(俺じゃない……誰かが、俺の中に……!)
その瞬間、イツルの瞳の色が、わずかに揺らいだ。鏡があれば、彼は気付いただろう。
そこに映るのは、イツルではない。少女のような、別の“誰か”の瞳だった。
◆
――翔影高校屋上。
翌朝、リョクは一人で空を見上げていた。イツルの異変には気付いていた。だが、それを追及すれば、きっと彼を追い詰めることになる。
(――悪い予感がする)
リョクはかつてMtMの訓練で教わった【魔導催眠】の特性を思い返していた。眠っている間に仕込まれた命令は、普段は自覚できない。そして、その命令は“本人の意思”として発動する。
「まさか、おまえ……本当に」
リョクは目を細めた。
イツルの中で、何かが目覚め始めている。
――気付かないふりをしながら、リョクはその真実に迫ろうとしていた。
(つづく)
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