第3話:笑顔の裏側
――翔影高校、教室。
始業チャイムが鳴る寸前、イツルは教室の扉をゆっくりと開けた。
「おー、ギリギリ。どうした? 珍しいじゃん、遅刻寸前なんて」
リョクの声が、いつも通りに響く。だがイツルはその声に、なぜか一瞬、反応が遅れた。
「――ああ。寝坊、したみたい」
そう言って笑うイツルの表情は、どこか“借り物”のようだった。唇の形は笑顔なのに、目の奥に光がない。リョクは、無意識に肩の力を抜くと、声のトーンを落とした。
「なあ、イツル……」
だがその時、担任が教室に入ってきた。
「はーい、みんな席についてー。今日は身体測定あるから、準備してない人は今のうちにねー」
生徒たちがざわつく中、リョクはイツルの背中を見つめていた。細くなったその肩、わずかに丸まった背筋――そこに、“いつもと違う”違和感を覚えていた。
(……なんだ、これ)
胸騒ぎの正体はまだつかめなかった。ただ、“何かが進んでいる”という直感だけがあった。
◆
――体育館裏、女子更衣室前。
「……え? なんで?」
保健委員の教師が手元の名簿を見て、首を傾げた。
「野辺、イツル……あれ? 男子名簿にちゃんとあるな……。けど、受付票には“女”って印字されてる……?」
イツルは息をのんだ。受付票の自分の名前の下に、“女”の文字が確かにあった。 まるで、最初からそうであったかのように。
「名簿はちゃんと“男”になってるし、入力ミスだろうな」
保健の教師はそう言って、特に疑いも持たず処理を進めた。
だが――そのやり取りを陰から聞いていた人物がいた。リョクだった。
(“女”?)
彼の脳裏に、数日前に抱いた違和感が蘇る。イツルの声のトーン、時折見せる柔らかすぎる仕草、そして“目”。
(まさか、本当に……?)
リョクの目が、細くなる。
◆
――放課後、購買前。
「なあ、イツル」
「ん?」
「……今日は、俺んち寄っていかないか? ゲームでもしようぜ」
「いいよ」
からかい半分で「また今度な」って返してくるのが常だったのに、今日の「いいよ」はあまりに静かだった。一拍の間すらなく返されたその言葉に、妙な空白が生まれた気がした。
(素直すぎる……というか、“誘われることが前提だった”みたいな反応)
まるで、あらかじめ決められていたルートをなぞるような返事。
(本当に……まだ“イツル”なんだよな?)
リョクの心の中に、迷いと焦りが混じり始めていた。
◆
――リョクの自宅。
「久しぶりだな、こうやって家でゲームやんの」
リョクはコントローラーを手渡しながら笑う。イツルも同じように手を伸ばし、画面のキャラクターを動かし始める。
二人のやり取りは一見いつも通りだった。
だが、リョクはイツルの動きを“監視”していた。
「なあ、イツル」
「ん?」
「……おまえさ、最近、夢見てる?」
一瞬、手が止まった。指先がわずかに震える。
「――夢?」
「うん。――例えば、鏡の前で知らない自分が笑ってるとか。気付いたら、名前を呼ばれてるとか」
「――なんで、そんなこと訊くんだ?」
「いや――なんとなく。似たような夢、俺も見てたから」
イツルの目が、リョクをじっと見た。まっすぐで、よどみない――だが、何かが混じっていた。
「――それ、本当?」
「――ああ、本当だよ」
リョクは、嘘をついた。
イツルの反応を探るための嘘。それに対して、イツルの瞳がほんの少しだけ、冷たく笑ったように見えた。
◆
「じゃあな、また明日」
イツルは暗い夜道を一人で歩いていた。月明かりが制服の影を伸ばす。その歩き方が、今までよりも少し“女性的”だったことに、誰も気づかない。
そしてイツルの内心で、声が囁く。
『……よくできました、イツミ』
“イツル”は、無意識に微笑んでいた。
◆
――リョクの部屋。
ベッドに腰を下ろしたリョクは、スマホの画面をじっと見つめていた。
(闇野ナナカ。
指が震える。それは怒りではなく、恐れだった。
(イツル……おまえ、もう……)
画面には、ナナカの写真と共に、こう記されていた。
HYP特殊階級:闇野ナナカ
専門:魔導催眠・人格転移・暗示性洗脳
“自我の輪郭を溶かし、深層情報を書き換える魔術”を用いる
リョクの中で、確信が形になっていく。
イツルは、ナナカに“変えられている”。だが、今はまだ完全ではない。だからこそ、今なら――。
「俺が止めてやる……絶対に」
誰に届くこともなく、その誓いは夜の闇に消えた。
(つづく)
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