魔導催眠と揺蕩う性
山田火星
イツルとリョク編
第1話:目覚めの檻
――どこだ、ここは。
目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。冷たい鉄の感触。鈍い蛍光灯の光が、無機質な空間を淡く照らしていた。天井にはパイプがむき出しになっており、時折水滴の音が響く。臭い。埃と薬品が混ざったような匂い。
「俺は、あのとき……」
野辺イツルは、がたつくベッドの上で上体を起こした。制服は乱れ、手首には赤い擦り傷が浮かんでいる。視界の端に見えるのは、分厚い鉄格子。部屋の隅には監視用のカメラが設置されており、こちらを無感情に見下ろしていた。
「チッ……、やられたか」
記憶は、断片的だった。
その時だった。ギィ……と鉄扉がゆっくり開いた。
入ってきたのは、黒を基調としたフリル付きのロングコートに身を包んだ女。長い黒髪、整った顔立ち。瞳は深い紫色で、不気味な光を湛えていた。
「おはよう、イツルくん」
その女の名を、イツルは知っている。
「――
「ご名答。ふふっ、さすがはMtMの優等生ね」
ナナカの声は心地よく響いた。まるで音楽のように。だが、イツルは眉をひそめる。目を合わせた瞬間、意識の底がざわめいた。吸い込まれるような感覚。何かが、自分の中に忍び込もうとしている。
「やめろ……!」
「そう、警戒は大事。でもね、もう遅いの。あなたはもう、私の術の中にいる」
「――何?」
ナナカが、ポケットから小さな懐中時計を取り出した。銀の鎖が揺れるたび、どこか懐かしく、甘美な眠気が襲ってくる。
「これはただの時計じゃない。魔導術式が刻まれている。見ているだけで、あなたの心は深く、深く……沈んでいく」
「くそっ……!」
イツルは目を逸らす。しかし、脳裏にさざ波のように響くナナカの声が、意識を浸食してくる。
(眠ったら、終わりだ……!)
「ねえ、イツルくん。あなたはこれから“イツミ”になるの。女の子として、もっと素直に、もっと従順に……」
ナナカの言葉が、イツルの耳に甘く響く。その度に身体が熱を帯びていく。視界が揺れ、膝が崩れ落ちそうになる。
「俺は、男だ……そんなもんに……負けるか……!」
だが、限界は近かった。思考が濁り、言葉がうまく出なくなる。最後に見えたのは、ナナカの微笑。そして――
闇が、訪れた。
◆
――廃ビル地下、HYP臨時拠点。
次に目覚めたとき、イツルは汗びっしょりでベッドに横たわっていた。身体を起こし、慌てて自分の姿を確認する。手、腕、胸……下半身。
(――男、だ)
確かに、自分の身体は変化していない。ナナカの言っていた“イツミ”とは、一体何だったのか。その時、扉の外から声が聞こえた。
「さようなら、イツルくん。また会えるといいわね」
ギィィ――
音を立てて、扉が開く。
目の前には、無防備に続く暗い通路。誰もいない。まるで、”逃げていい”とでも言わんばかりに。
(――なんで?)
不信感は拭えなかったが、ここに長く留まっていても状況は悪化するだけだ。イツルは立ち上がり、よろよろと出口へ向かった。
逃げられるのか、それともこれは罠なのか――わからない。
だが、彼は忘れていた。
いや、忘れさせられていた。
通常の催眠術以上に、魔導催眠においては――
“目覚めた後”にこそ作用する仕組みが、いかに容易であるかを。
◆
――東京都・私立翔影高校 正門前。
数日後。イツルは、制服のネクタイを直しながら、朝の通学路に立っていた。鏡に映る自分の顔はいつも通り。身体も、声も男のままだ。ナナカに捕まった日以来、記憶は曖昧で、組織の報告書にも”軽度の被術”としか書かれていなかった。
(本当に、逃げられたのか?)
違和感は残っている。だが、それを裏付ける証拠は何もなかった。
「おーい! イツル!」
声に振り向けば、いつも通りの笑顔で手を振る親友――、リョクがいた。
「久しぶりじゃん。なんか顔色悪いけど……大丈夫か?」
「……ああ。ちょっと、寝不足でな」
日常が戻った。
しかしその胸の奥底に、イツル自身も気付けない“プログラム”が、静かに蠢いていた。
――それは、ナナカが微笑みながら植え付けた、後催眠暗示。
次に発動する時、イツルはもう、イツルではいられない。
(つづく)
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