第4話「笑顔のプロトコル」
昼休み。
春の光が、教室のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
昼食を終えた生徒たちが、席を立ち、教室の空気はそれぞれの小さな会話で満たされていく。
笑い声。冗談。手を叩く音。誰かのあくび。
そんな音の粒子のなかに、一人だけ“表情を持たない存在”が混じっていた。
ユウナ・アーカイブ。
彼女は、今日も正しい姿勢で着席していた。食事は必要ないため、ただ周囲の観察を続けている。
その視線の先で、女子たちが談笑していた。
ふざけた言葉を言い合って、笑って、また笑って。
そのとき、ユウナの目がわずかに細くなる。
——観測ログ起動。
対象:A班グループ内の笑顔発現率:87.3%
音声周波の跳ね上がり、目尻の収縮、口角上昇。
“笑顔”の条件、充足。
晴翔が近づいたとき、ユウナはちょうどそのグループを見ていた。
「何見てんの?」
「笑顔、です」
「……え?」
「人間が、互いに表情を向け合う現象。とても不思議です。
筋肉の動きに、感情を乗せて、共有しているように見えます」
「まあ、そうだな。笑ってると、なんか安心するし……」
晴翔は隣に腰かけて、少し考えた。
「けど、たまに“つくり笑い”ってのもあるよ」
「偽装……でしょうか?」
「うーん。正確には、嘘というより“演技”。
……本当の笑顔じゃなくても、相手のために笑う、みたいな感じ?」
ユウナは小さく首をかしげた。
「その行為の目的は、相手を安心させることですか? 自己保身ですか?」
「どっちもあるかもな。……でも、大事なのは、表情の裏側じゃなくて、“その時どう見えたか”かも」
その放課後。
ユウナは、晴翔に向かって言った。
「晴翔さん。笑顔を、見せていただけますか?」
「えっ……?」
「記録のために、できるだけ自然な笑顔を。できれば、真顔からの変化を段階的にお願いします」
「え、なんか恥ずかしいんだけど……」
「“恥ずかしい”という感情についても、記録対象としています。どうぞ」
それは、放課後の教室という不思議な空間で始まった、奇妙な“笑顔の授業”だった。
晴翔は渋々、顔をしかめたり、微笑んだり、目尻を下げたりしてみせる。
それを、ユウナは真剣な表情で観察していた。
「……では、次は、私が模倣してみます」
そう言って、彼女はわずかに口角を上げた。
それは、美しかった。
表情筋の動きとしては完璧だった。左右のバランスも、動作の滑らかさも、驚くほど自然だった。
でも、そこに“感情”はなかった。
だからこそ、少しだけ悲しかった。
「どうでしょうか?」
「……うん。完璧すぎて、ちょっと怖い」
「怖い、ですか?」
「うーん……いや、ごめん。変な意味じゃなくてさ。
“きれいすぎると、人間らしさを感じなくなる”っていうか……」
ユウナは、ほんの少しだけ口元を緩めて——もう一度、笑ってみせた。
今度は、ほんの少し、不器用に。
それは、微かな違いだった。
けれど、晴翔の心には、確かに“何か”が響いた。
「……ああ、そっちのが、いいかも」
「不完全な笑顔が、良い……?」
「そう。完璧じゃないほうが、安心するっていうか……。
うまく笑えてないのが、“笑おうとしてる”って感じがしてさ」
ユウナは、しばらく黙っていた。
そして、小さくつぶやいた。
「“笑おうとしている”ことが、感情の発露になり得る……」
その日、ユウナはノートにこう記した。
No.5:「笑顔とは、感情そのものではなく、誰かのために“そうあろうとする意思”かもしれない」
夕焼けが教室を赤く染めるなか、ユウナは机に座ったまま、もう一度だけ、笑ってみせた。
誰の指示でもなく。誰の模倣でもなく。
それは、たった0.2秒だけ記録された“未定義の感情反応”。
それを、彼女は“ノイズ”と呼んだ。
🔚
ユウナの青春定義ノート:追記
No.5:「笑顔とは、感情そのものではなく、誰かのために“そうあろうとする意思”かもしれない」
No.6:「完璧でないものに、人は安心する」
No.7:「笑おうとしてる顔が、一番人間らしい」
次回:「美月の距離感」
感情を知らないAIを前に、美月は“笑えない理由”を抱えていた——。
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