第5話 中堀文具店(その1)

さてさて、一応、小説なので話の方に戻ります。


「今日は、沢山のお客さんが来るので寿司を漬けるのがええいね」

 うらなりの妻の門枝は、そう云うと竹の端を吹きながら額に汗をかいている。松山寿司の準備を急いているのだ。

 松山寿司はエソの身を焼いたものに酢を漬けザラメで甘くしたのを寿司で漬ける。金糸や野菜を盛り、焼アナゴで小さく切り全体にりをして完成する。

「おい、米3升とは……、おんばくやで」

「学生さんが10人ほど来るし、先生夫婦も来はるし、他にも来はるようやし。3升ほど要るのやし。まだ少し要るかもしれへんわ」

 門枝はそう云うと、竹の棒を口に当てると息を吹き出した。

「京都駅まで行ってくる」

 うらなりが云うと、玄関の引き戸に引いて外に出る。

「気い付けてな」

 門枝は、つえいて歩く貞五郎の姿を見送る。


 うらなり(貞五郎)は、赤シャツこと横地石太郎夫妻に迎えに京都駅に出ていた。赤シャツは山口高等商科の校長だったが、定年退官でブラブラしている。だが、漢籍とか考古学とか色々の趣味で京都の転居に住もうとしている。京都の住居の事で貞五郎に手紙を出したのだ。

「中堀さん、京都に住もうとしているので、京都の住みそうな住居を教えてくれないか」

 という横地の手紙を出したのは、今年(大正14年)の正月の年賀状だった。今日、横地夫妻が夜行列車で京都駅に着くのだ。


 うらなりが、京都駅前を横地夫妻を同行している。

「まずは、家を見ないといけないな。何処や?」

 赤シャツは、急いでいた。

「先生の慌てているのは昔も同じですな」

 うらなりは、笑って云った。

「そうなんですの、慌てているのは昔よりも今の方が……」

 横地夫人は手を当てて笑っている。

 うらなりは、

「先生の住居を松山で探したこともあったですね。遠い昔の事ですが、ちょっと前の事のようですな。夏目さんも一緒に探したこともあった。愚陀仏庵ですな。正岡子規さんが居候していたこともありました」


 うらなりが調べた三軒の家だったが、結局、赤シャツ夫婦は最初の家が気に入ったのだ。

「二人の家としては大き過ぎじゃ。それに、京都は家賃が高い。山口やったら同じぐらいの家やったら五分の一である。それに、帝大の図書館が近くにあるしのう」

 うらなりは、赤シャツ夫妻に大丸の食堂に案内をした。

「オムライスとは初めてじゃ。其れに半券とは」

 赤シャツは「半券」を見ながら納得している。ウエイターも客も料理人に簡単にできる。そして、オムライスが出て来た。


 うらなりの店は三高の近くで路地にある。中堀文具店の看板があり、その中から三人の学生が出て来た。三人ともに寿司折りを持っている。

「花見に行くのか。ええな、何処の桜や?」

 うらなりが声をかけた。赤シャツ夫妻も傍にいる。

「三高の制服の二人と海軍機関学校の制服一人か。優秀じゃないか」

 赤シャツが云うと、うらなりは、

「機関学校の一人は、次男の忠三ちゅうぞうです。後の二人は、小川おがわ君と朝永ともなが君です。小川君のお父さんは地質学の教授で、朝永君のお父さんは哲学の教授です」

「ほう、では地質学や哲学をやるのやな」

 赤シャツはそう云うと、

「いえ、私は物理学を目指してます。小川も物理学です」

 朝永は云う。

「わしも物理学と化学の勉強したのや。同じや。中堀さんも物理や。東京物理学校やったな」

 赤シャツはそう云って笑った。

 うらなりは、

「三年前か、京都大でアインシュタインの公演があって、確か三円やったな。物理学の私の頃とは全然違って全く歯が立たなんだ。君たちも公演に来たのか?」

「一応、聞いたのですが、やはり分かりませんでした。バイオリンの二・三曲でアインシュタイン弾いたことを覚えています」

 朝永は云った。さらに、

「バイオリンも玄人くろうとはだしだったです。物理学も心の余裕がないとバイオリンぐらいは弾けないようです」

「寄席に行くのは余裕の為か」

 小川という名の学生は、朝永に云った。


※ 小川は婿養子になり湯川秀樹となる。朝永は朝永振一郎である。

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