第3話 うらなりのその後

 次は「うらなり」です。うらなりの本名は中堀貞五郎なかぼりていごろうです。松山の隣の今治出身です。今治……、ちょっと待て、今治と云うと重見周吉の出身地じゃないですか。

 これは想像ですが、夏目漱石の隣の席に「うらなり」がいたので、夏目が「中堀さん、重見周吉と云う今治出身の人が居るのですが、知ってますか?」

 中堀の返事は「重見周吉君は……よく知ってますよ。賢い子だったな。橋を渡った処に本町通りがあって、そこに家があったな。私はその近くで家と家は五十歩ぐらいでした」


 夏目漱石は「なんで今治と腐れ縁か」と云うような言葉も出て来るのかもしれない………


「うらなり」によると、重見さんはプロテスタントだと云う。重見周吉は重見さんの五男坊だったはずだ。当時、近くの米屋町に教会というか民家を教会様にした処にアメリカ人たちがやって来たのだ。

 うらなりは「重見さんの五男坊はすぐに英語を話し始めてびっくりした」と云っていた。

 夏目漱石は、重見周吉の英語が流暢だったことを理解した。


 うらなりは、伊予師範を出て教諭になったが、三年で退職し東京に出て物理学校(現在の東京理科大)に入る。かなり苦学した様で、物理学校を七年かかって卒業している。そして、松山中学に奉職する。坊っちゃんが物理学校に入って松山中学に奉職するということは此処までは、うらなりの経歴と殆ど同じである。

 うらなりは、松山中学に奉職すると結婚する。妻は正岡子規の三歳下の妹「りつ」である。律は再婚だった。うらなりは三十歳、律は二十歳、当時としては晩婚である。しかし、この結婚は一年もしないうちに離婚している。仲違いとかは無くて、正岡家の方にあったようです。おそらく律に健康上の理由(たぶん不妊症か?)とかがあったのじゃないか? 

 分かりませんが、律は再婚とかは全くしていない。律はその後、親戚の子を養子にしている。


※ ちなみに、明治初期は、まだ士族と士族の婚姻がある。士族と云っても1~ 2%であり、その中での婚姻は困難だと云える。正岡家と中堀家は下級の士族で あり、うらなりと律とが結婚するのは普通にあることです。正岡家は14石、中堀家は12石三人扶持だったと云うからには、家と家は同格である。

 二人は仲の良かった夫婦であったようですが、その頃の離婚の殆どは不妊が原因だったようです。


子規は、夏目漱石の下宿に転がり込んでいる。愚陀仏庵である(これもうらなりが斡旋したかもしれない。松山で斡旋できるのはうらなりしかないのだ。他は別の出身ですから松山の事情を知るにはうらなりしかいない)。

 その愚陀仏庵の一階が子規で二階が漱石で、二か月ほど毎週のように句会なんかやっている。坊っちゃん、赤シャツ、うらなり、野太鼓のだいこ、山嵐なんかも句会に入ったと思われる。その時の句なども記録もあるのだが、誰の句かなんかは分からない。漱石とか子規とかはあります。高浜虚子、柳原極堂、河東碧梧桐なども分かりますが、他は分かりません。俳号でしか分かりませんので。

赤シャツ作、うらなり作、野太鼓作とかがあったらよいのですが、それはあり得ないし、あったらあったで面白い。

 松山の帰郷は半年ほどだった。子規はすぐに東京に出ることになる。そして、律は、母親と東京に出、根岸の正岡子規の介護に専念します。八年の病気で終焉も此処にある。

 うらなりもおそらく三津浜で船に出る律を送ったと思われる。喧嘩別れとかではないので、新婚生活も含めると5~6年間は親しくしていたのだ。ドラマでは秋山真之を律を送ったとあるが、本当はうらなりが送ったかもしれない。坂の上の雲では、秋山真之と律との別れだとドラマになるが、うらなりと律ではドラマにならない(失礼)。


 うらなりは、赤シャツが校長になって後、教頭になった太田厚おおたあつしの妹と結婚する。同じりつと云う名だったが一年もしないうちに病気になり死亡する。うらなりは女運が無かったのだ。

 しばらくは独身だったのが、うらなりにも女運がやって来る。愛媛師範学校卒の小学教諭、河部門枝かわべかどえと結婚する。31歳の行かず後家(今ではセクハラです)で、薬屋の娘です。うらなりも44歳ですから贅沢は言えない。しかし、子供も三人が生まれ最後の子供は54歳です。これは凄い。赤シャツもうらなりも絶倫だったのだ。


 明治38年には、新設だった弓削商船ゆげしょうせん高等専門学校に転任する。そして大正3年に定年退職する。大正3年に弓削から京都に移るのだが、その時には今治中学も設立されているのですが、三人の子供達には今治中学ではダメだという訳で、京都府立一中を目指しての京都だったようです。確かに当時の今治中学では、一高、三高、そして帝国大学は無理だったのです。長男の誠二は、府立一中は最初は入学できませんで浪人でした。無理もありません。弓削のド田舎で山や海で遊んでいただけの府立一中からは不可能です。しかし、三人ともに京都府立一中に入りまして卒業しました。やはり、うらなりとしては、夏目漱石の帝国大学卒は憧れと同時に嫉妬もあったと思われる。いきなり自分の三倍の俸給では心穏やかではありません。府立一中から三高、京都帝国大学は息子たちには、どうしてもやらせたいことだったのでしょう。

 稼業としては、文具店で繁盛したようです。うらなりの傍には今治の本町通もあり、妻の薬屋の娘ですから商売もできるし、そもそも京都は学生の町ですので文具店の繁盛するのは当然だと云える。それに、文具店は投資としては安くできるので、うらなりとしては良い処に気付いたのだ。学生や教師もやって来るのだ。孟母三遷の故事も頭にあったのかもしれません。

 長男の誠二は、府立一中、三高から京都帝大文学部哲学科卒で鹿児島大学教授、後に東大名誉教授になる。次男の忠三は、府立一中、海軍機関学校卒で後、海軍中佐(38歳で中佐とは凄い)。三男の孝志は府立一中、三高から京都帝大物理学部卒で島津製作所に勤務し後に重役になっている。赤シャツと島津製作所の初代とは友人だったようで、その縁で島津製作所の入社だったようです。

 次男の忠三にも三高、京都帝大にも行かせたようですが、海軍機関学校に入りました。小さな文具店では息子三人に帝大は無理かもしれない。忠三もそのようなことで自ら海軍機関学校に行ったもしれない。その同時は、海軍機関学校は、一高、三高の上位で、入学金も学費も無し、給与もあったのです。

 うらなりの望みも十分果たせたのだ。「良い人生だった」なんて言ったのかと思う。子規、漱石らと句会をしたと云うだけでも他の俳人らには羨ましいのだ。


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